葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

20231205日記

シュトーレンを食べ始めている。昨日から。岡崎のドイツパン屋までわざわざ出掛けて買ってきたもの。手間に相当する美味しさがある。知らないスパイスが楽しく香るし、様々なドライフルーツが混ぜこぜになって齧るたびに異なる風味になる。

普段の生活が同じようなものになってしまうから、イベントごとは助かる。対外的には楽しみたいからと言っているけど、もしかしたらこれしか楽しむ方法を知らないのかもしれない。自分の中に楽しみたい気持ちはあるのだろうか。あれ、楽しく美味しいシュトーレンの話が、なぜ。中断!!

 

なぜ、というと、たぶん仕事の休憩中に読み進めた『コンビニ人間』のせいなのだろう。仕事後も含めて読み進めてしまい、一日で読了した。主人公はコンビニのマニュアルに従って生きている人間だ。コンビニに最適化されるように主人公の身体や精神は適応している。そういえば、僕もこれだ。僕も、“善く生きる”ことに合わせた心身で生きている。何かをして「良い人だね」と言われればポジティブフィードバックをし、「悪い」と言われればその性質をなくす。それは表面だけの話でなく、内面も含めてそうだ。シュトーレンを楽しむと周りが楽しそうにするから楽しんでいる。アドベント期間を楽しむ方が人として適切という反応がもらえるので、そのように心を成形しなおす。その微修正の繰り返しで今の自分がある。先ほどの「中断!!」と思考を断絶した行為さえ、この思考を続けると“不適切”な方に考えがいってしまうという合理的判断によるものだ。そこに僕はいない。

もちろん、他人の意向に沿ってのみ自分があるわけではない。僕がシュトーレンを楽しんでいる人を見て「このようになると人生楽しそうだ」と思って成形しなおしている面も十分にある。ただ、どちらにせよ、主人公がコンビニのマニュアルに最適化されているように、僕も適切な人間になるという指針を核として最適化されていると思うのだ。それが僕の思う適切な人間像か、他人の思う適切な人間像かという違いがあるだけで。自我がない。別に自分はそれで構わないのだが、その性質によって人間らしく見られないと「適切な人間」から遠ざかってしまうので、面倒だなと思う。自我がない。

コンビニ人間』の主人公は非常に発達障害のようである。人間が一般に持っている感情や価値観を持ち合わせていないというシーンは数えられないほどある。ただ、発達障害自閉症をテーマにしたお話、というと本質を読み違えているように思う。なぜなら、主人公は発達障害で苦しんでいるわけではないからである。主人公は一貫して、コンビニ店員として、もしくは周りに快を与える存在としてうまく振る舞えていないことに不満を覚えている。その原因は発達障害的な何かであることは明らかだし、主人公も認識はしているのだろうが、「発達障害がつらい」と思っては全くないだろう。

何が言いたいかというと、この物語はむしろマニュアルに沿ってしか生きられない人のお話なのだと思う。そして、それが僕なのだ。強引に自分の話に繋げよう。僕はずっと誰かに飼われたいと思っている。自分の指針を誰かに預けたいと思っている。それは物事を自分で決めて責任を持つつらさからの逃亡だと思っていた。そうではなく、そもそもの話として僕は何かの指標に沿って、ハイスコアを出すための生き方しかしていないのだ。それならスコアの算出が不透明なゲームルールよりも、何をしたら何点加算されるかが明確な方が生きやすいというだけで。

ああ、“適切な人間”になるために不必要だからと蓋をしていた本来の性質が見えてしまった。さて、どうすればいいのだろう。とはいえ、僕は知っている。悩んだって何も始まらないし、こういったことも時間が経つと忘れてしまう。何もしなくても上手くいく。悩めば悩むだけリソースが減る。だから、忘れるように努める。それが適切だから。

コンビニ人間』はハッピーエンドだと僕は思う。それなら、僕もそう生きられるようにすればいい。なのに、なぜ動揺しているのかあまり分かっていない。声がする。「ネズくんはこんなに人間になりたがってるのに、どこまで近づいても人間になれなくてかわいそうだね」。たしかに。だから動揺しているのかもしれない。僕は応える。これが本当に僕の声なのかはわからないが。人間として生きていけないのなら、素直に別の道を探すか。(ここから先の文章は切り取られている。裏日記へ続く。)

 

別の話をしよう。メイド服を着たいことについて。そういえばこれは女装になるのだが、全く考えていなかった。というか、女性性が強い服を着ることと女装という文化はかなり別物だと考えていることがわかった。ちなみに、コスプレでもないと思っている。メイドさんになりたいのではなく、メイド服を着こなしたいのだ。「コスプレではない」という主張は「女装ではない」という主張に比べるとかなり微妙なところなのだが。メイド服は女性の象徴ではそんなにないけど、かなりの強さでメイドという職種や主従する者の象徴ではあるから。

話を戻して。一言でいえば、僕は女を装いたいわけでもメイドになりたいわけでもない。その服装が持つ性質に僕が求める要素があり、それが偶然僕の生まれ持った性別や現在のロールと異なっているだけだ。僕はメイド服を着ても性別やロールはもともとのままだと思う(僕が着たときの自認の話で、どんな服を着たって人の本質は変わらねえよという意味ではないです)。女装やコスプレは大胆に飛躍する変身を主眼に置いていると思っていて、僕の場合は地続きの小規模な変身だと思う。まあ、逆に言えば自認以上の話ではないし、自認は人には関係ないのだけれど。でも、せめて親しい友人の人々には、「女装じゃん」「お、コスプレ?」とか言わないでくれると、うれしいと思います…(友人を信頼してないのか?)(してます)

 

コンビニ人間を読んで頭が壊れたので、今日はずっと寝そべって別のブログ記事を書いていた。適切なタイミングで公開します。しかし、Twitterにものを書かなくなったな。長文を編む楽しさに目覚めたのもあるけど、Twitterへの信頼をなくしたというのが大きい。「タイムラインの雑多なツイートに混じって流れてくるのを受動的に読む」というスタンスで読まれても大丈夫な文章って、ほとんどない。視覚的なイラストや写真、あとは今日買ったリンゴが美味しかったみたいなとてもシンプルな感情、それくらい。あとは読まれる嬉しさより誤読を招くリスクの方が大きい。日記に普段あった出来事を書くようになったのは、リンクを踏むという能動的な行為をしてくれた人に対しては言えることがとても増えるからである。いつもありがとうございます。こんな拙文しか書けませんが、読んでくれてるのはとてもうれしいです。急に読者に向かって礼を述べだす人、こわ……

 

aslightfever - EP

aslightfever - EP

  • uku kasai
  • エレクトロニック
  • ¥765