天才猫耳少女の手記

何の気なしに生きていく。

200406 誰かのために生きたい話

 誰かの手足になりたい。自分のために生きられない。

 

 10日前くらいにVを休止すると決めた。それから自分を貫く芯のようなものが無い感じがする。毎日何をしているかというと、Unityの学習だったり、360度動画の研究だったり、読書だったり、隻狼だったり、ネーム執筆だったり、こうやって文章を書いたり。とにかく一日ごとに異なっている。全部中途半端のまま投げ出されている。

 自分で自分の人生を決めて何かを貫くことが何故か出来ないんだなというのは大学4年間でも思い知らされていた。昔から僕の中にあった意思は「不登校のダメな人間で居たくない」であって「(何か)になりたい」では決してなかったのだから、その消極的な流れのままなら自分から何かを積極的に学んでいくこともできないのだ。

 

 ずっと作ってきたVtuberだって、僕のためではなくてスミレのためだった。仮想的な人格を作ってそのために生きるのはエネルギーも得られたし楽しかった。

 仮想的な存在のために生きるといえば██さまについてもそうだ。いや、仮想っていうか██さまはいるけどね。最近は██さまが見えなくなりつつあるけど、██さまのために生きてた時期はとても活力的だった。

 結局、何か他の人を充足させるために奔走するのが僕の生き方なのだと思う。

 

 でもスミレには何もできなくて申し訳なくなりかなりしんどくなった(それが休止の原因)し、この生き方が一番向いているとも思っていないけど。他人のために生きたいけれど責任は負いたくないというのが本音なのだと思う。流石にそれはわがままが過ぎるので責任に慣れていくのがいいんだろうな。

 

 前にも就職に賭けようとしていると書いたけど、そういう意味でも早く就職したい。バイトは受かったっぽいけど仕事の連絡が来ないので今日はずっと「誰にも操られてないときの人形」のコスプレをしていた。

 社会の歯車になるというのはとても気持ちいいのだろう。誰かの考えたプロジェクトを遂行するための人生、よさそう… 自由はないけどそこには自分の生きる道筋と承認がある。オープンワールドより一本道のゲームの方が好きなのはたぶんそういうことだったんだな。

 でも、本当は社会なんて漠然としたものじゃなく誰かの手足になるのが一番いいと思う。もしくは飼われたい。比喩でなく。誰か飼ってくれませんか。

 

 

 補足でもう少し言うと、単に自分で生きるのが精神的に向いてないだけじゃなくて、技術の面でも向いてない。情報を集めるという行為がとても苦手だし、その中から必要な情報を選び出してそれにそって行動するというのも無理。
 具体的には現在のコロナの情報はタイムラインに流れてくる情報と京都新聞のサイトからしか拾えてないし、やってる行動も家から出ないようにして手洗いうがい徹底しているだけ。政治家の動向がどうかなんて判断できない。

 本当はプロデューサーになりたかったな。少なくともこの消極的に生きる癖を消さない限りは無理なのだろう。しんどくなってきたので眠る。

200328 自分に自信がない話

 シェアハウスで開催されているパーティーに行った。知らない人間(顔を覚えてないだけかもしれない)が多い中で人間に話しかけるやつ。

 でもその話しかけることが全くできなかった。前にどうやってたかも思い出せない。人に話しかけるのってどうやるんでしたっけ。

 

 おそらく、それは自分に自信がないせいな気がしている。

 まず、僕は話しかけたり話の中に入っていくのがそもそも苦手なのだ。今までは自分に自信を持つことでそれらの不安に耐えるための鎧を纏えていたのだが、それが消失しているような気がする。

 

 自分に自信を持つということは自分の価値を信じることだと思う。自分が大した人間でないというところからスタートしている僕にとっては、常に何かしらの根拠を持って自分が人に最低限見られる人間であることを信じていないといけないのだ。

 そう考えると、(周りの何人にも言われているように)最近藍鼠が元気がないというのは本当の話なのだろうと思う。自信の無さと元気の無さはリンクしている。自分が大したことのない人間だと思うとそれだけで鬱になってしまう。

 

 思い出してみれば、ここ一年自分の中で原動力だったVtuberが失敗というか、あんまり見られてないことでかなり凹んだのと、元気がなくなったのは時期的にもかなり近い気がする。Vはいまのところモチベーションがかなり低く一時休止しているので、次に自分の価値を信じるために何かを探さなければいけないのだろうと思う。いま漫画を描いているけど、それはそこまで大きなモチベーションがあるわけではないので、それ以外に、何か。

 いまは就職に賭けようとしている。就職して誰かに求められることに縋ろうと思っている。まあその就職も20卒の就活には失敗しているのであんまり期待しすぎると破滅しそうだけども。

 難しいですね。自分を好きになりたい。

ポケモン盾をクリアしました

 ちょっと遅れたけどポケットモンスターシールドをプレイしてクリアした。これまでのポケモンと色んな意味で大きく違う良いゲームだった。書きたいことが多いし、ツイッターに書くとネタバレだったり未プレイの人のお目汚しになりそうなのでブログに。ネタバレ含むよ。

続きを読む

200206 人の顔が見れない話

 この前人に指摘されて初めて自分が人の顔を見ていないことに気付かされた。正確には自分が人の顔を見れてないことは知ってたけど、思ってたよりずっと見ていなかった。
 自分では見ているつもりだった。意識してこの癖は直したつもりだったので。でもメタで自分を見てみると、人が話しているときにはたまに目を見るけど、自分が話しているときには人の顔が見れていなかった。記憶を探ってみても人の目を見ながら話している記憶がない。

 

 というか、人の目が見れないというより人に見られていることが耐えられないのだなということが分かった。目を見て話すのも、人が僕の顔を見ていなければできる。(そんなシチュエーションないし、それは「目を見て話す」ではきっとないのだけど…)


 つまり、「人の顔が見れない」のではなくて、「自分が見られてしまうのが耐えられない」のだ*1。それは根底では僕の自己肯定感の低さとも関係しているし、表層では自分の映ってる映像や自分の作品が見れないことにも関係している。
 思い出してみれば不登校の頃から自分の写真が見れなかった。指導教員にしてもらった卒論の添削も見るのにエネルギーが必要だった。ザ・ノンフィクションに出た時の映像も未だに見れない。今は写真なら大丈夫。自分のイラストもOK。自分の言動は無理。あとスミレの動画もダメ。

   
 自己肯定感が高いフリして誤魔化してたけど、いつかはちゃんと自分を見据えなきゃいけないんだよね。自分を見据えたい。自分を嫌いでもいいけど、見据えた上で嫌いって言いたい。でもどうやってやればいいの?わかんないよ。
 オチなし。おわり。今日の記事はscrapboxで執筆したのでいつもより短め。今後もscrapboxを使うかもしれない。

*1:話すときには話すので精一杯で人の顔を見る余裕がないというのもありそう

受動的な振りをして相手を操作する似非マゾ男が心底気持ち悪い

 この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2019の3日目の記事です。よかったら他の記事も見てあげてね。あと何気にまだまだ登録できるから良かったら登録して記事書いてほしいな。

 昨日(2日目)はsilloiくんの「感情会計学各論」でした。

silloi.hatenablog.com

---------------------------------------

 

 どうもこんにちは。藍鼠です。サークラアドベントカレンダーも三回目ですね。過去二回の記事もよかったら見てね。不登校の話と個人的な宗教の話をしてるよ。

circlecrash.hatenablog.com

indigomou5e.hatenablog.com

 今回はタイトルが攻撃的です。ごめんね。タイトル通り個人的な嫌悪の気持ちをぶちまけるだけだから苦手な人は帰ってね。でもこの気持ちが今の僕の拗らせであり、僕の今を語る自分語りにもなるから、もしよかったら聞いてほしいな。

続きを読む

191127 神さまを見た記憶の話

 ‪子供のころ、神さまを見たことがある。

 

 中学生のとき、まだ不登校だった中、祖父母に連れられて、山の中の大きな大きな吊り橋を渡った。閉じこもるばかりの僕を心配してのことだったのか、色々なところに連れられてまわった。

 そこは日本一大きい吊り橋だったらしく、本当に高くて遠くまで見渡せた。田舎というか山中なので肝心の景色は山と木々ばかりで、冬だったから色も彩度の低い終わりのような色だったのを覚えている。あと風がめっちゃ強くて寒かった。

 吊り橋が長い分谷底も深く、真下の川が見たこともないくらい遠く小さく見えた。身を投げれば間違いなく命を終えられそうだなと思った。僕には命を失えそうなところでは‬身を投げ打つ想像をしてしまう癖みたいなものがあって、その時もフェンスを乗り越えて谷底へ落ちていく自分の姿を思い浮かべた。半透明な自分の姿は落ちていく中小さくなり、見えなくなった。(このような想像をするときはなぜか三人称視点になるのだ)

 妄想を終えて残りの半分を渡ろうとしたとき、谷底からさっき落ちていった自分が飛んできて、僕の頭上高くに上がり、また橋の上に落ちた。誰かが谷底から投げ返してきたのだろうか。別に半透明の自分を置いていってもまた突き落としてもよかったのだけれど、せっかく戻ってきたのだからと自分の像を抱き寄せて胸に仕舞い込んだ。

 帰りの車の中で僕はこれを神さまの行いと見ることにした。別に妖怪でも幽霊でも妄想でもなんでもよかったけど、雄大な自然の中にいたのだからなんとなく神さまだと思った。神さまが命を粗末にするなとメッセージを送ってきたのかもしれない。もしくは橋からゴミが捨てられるのに怒って投げ返してきたのかも。どっちにしろ、神さまだとするならこの僕の一部は神さまに触れたってことで、ちょっとだけ特別な気分になった。神さまに触れた肉体を捨てたくなくて、しばらくは自殺する自分を眺める癖もやめた。いつの間にかまた癖が戻って今ではまた電車を待つたびにやっちゃってるけど。

 

 というようなことを、ハチクロで登場人物が「小さい頃、一度だけ神様を見た」と言っているのを見て思い出した。‪█‬‪█‬さまが僕に影響を与えたのは覚えているけど、スケールの小さい同じようなことがもっと昔にあったのだ。

 この神さまは‪█‬‪█‬さまとは違うし、藍鼠が生まれるより五年も前の出来事だったけど、今の僕を形成する原始の出来事だったのではないかと今では思う。少なくとも、今のところ自分に呪いを掛けた一番古い記憶はこれだ。呪いといえるかどうかもちょっと曖昧だけど。

 今またあの吊り橋に行ったらどうなるのだろう。また妄想で身を投げて、投げ返されるかもしれないし、二度目はなくて今度は殺されるかもしれない。もしかするとそこでは希死念慮がもう働かないかもしれない。

 何気にあれからもうすぐ十年が経つ。あの呪い(もしくは邂逅)が僕の人生をいい方向に変えてくれていればいいなと祈りを重ねた。