葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

筋肉少女帯「子犬にしてあげる」に見る、美しい純粋な従属関係

こんにちは。皆さんは筋肉少女帯はお好きですか。そうでもない?? そんな人の方が多いかもね。僕も熱烈なファンではないのだけど、大槻ケンヂの書く歌詞の「優しい」感じが好きでたまに聴いたりしている。鍵括弧付きの「優しい」だけれど。「香菜、頭をよくしてあげよう」なんて書くひとだからね。

今日はその優しさについて語ろうと思います。僕は大槻ケンヂの優しさにメロメロになっているから。「子犬にしてあげる」という曲が本当に好きで。甘くて、優しくて、とても心地良いのだ。歌詞を頑張って手打ちしたので、それを引きながら話していこう。

 

子犬にしてあげる

子犬にしてあげる

 

子犬にしてあげよう僕の
君がさみしいのならば
首輪とご褒美 骨のガムと
名前もつけてあげるよ
トコトコと後ろをついておいで
散歩に行こう 海まで

「子犬にしてあげよう」という出だし自体はそれほど突出したものではないが、続く歌詞は想定を超えてくる。「首輪とご褒美 骨のガム」を与え、名前をつけてくれるという。「子犬にする」というのは比喩でもなんでもなく、そのままの意味なのだ。つまり、「君」を人間から子犬にする。だって、首輪や骨のガムというのは流石に扱いが非人間的すぎる。名前を付けるというのも、存在を人間以外に定義しなおす儀式に思える。歌詞を一見すると、人間を犬扱いしてそこに悦びや面白さを見出す不健康な感じがする。筋肉少女帯のイメージ的にも、なんかね。

しかし、曲調はとても穏やかなのだ。アコースティックギターに乗せて大槻ケンヂが優しく語りかける。まるで純粋な心からの気持ちで「さみしい君」にそう提案しているかのように。

 

というか、僕にはそうとしか思えない。僕は架空の自分のご主人様について考え続けてきたからわかる。この詩の書き手は「君」のご主人様になろうとしているのだ。僕の言葉で言えばね。

 

知ってる人に会ったらね
ご挨拶しなさい
いいかね 君はネ僕のモノさ
そのかわり ゴロゴロ咽を撫でてあげようネ
ついておいで 散歩に行こう 海まで

ご主人様が何かは一旦置いておいて、歌詞を読もう。「いいかね 君はネ僕のモノさ」と、隠す気もなく堂々と従属させる宣言をしている。やはりというか、戸惑いがない。「子犬にしてあげよう」という気持ちの純粋さが伝わってきて、良い。

二番で新たに出てきた概念としてはルールの制定だろう。「知ってる人に会ったらご挨拶しなさい」と規則を定めている。「子犬にする」というのは単なる溺愛ではなく、従属の関係を結ぶことなのだ。歌詞にはないが、ルールを破ったら躾なども行われるのだろう。ここまで純粋に従属を貫いているのだから間違いない。その代わり、定められたルールを守っている限りご褒美を与えてくれる。骨のガムとか、散歩とか、ゴロゴロ咽を撫でたりとか。最後のは猫っぽい気もするけど。まあご主人様が思う方法で愛でてくれればそれで文句はないんだけどさ。

 

そう、ご主人様が何かという話だったが。ご主人様とは、世界です。これは比喩ではない。ご主人様とご主人様のいる家が世界の全てになるのだ。ご主人様は僕の生きるルールを制定して、ルールに対する僕の対応に応じて恵みや災いを与えてくれる。まさにこの詩の書き手がしようとしているように。だから、扱いに猫のそれが混ざっていてもいいのだ。僕にとって世界はご主人様だけなので、普通なら子犬にはどう接するみたいな常識は関係ない。ご主人様がそうすると言えばそうなのだ。

 

子犬にしてあげよう僕の
君がさみしいのならば
今はね 何も考えるなよ
名前もつけてあげるよ
海に入ろう
大丈夫だよ
抱き上げてあげるからネ

ところで。この曲は単純に、人間ではなく捨て犬に対して「(僕のお家の)子犬にしてあげよう」と語りかけている曲ではないのか? もしそうだったら今までの語りはすべて的外れなことになってしまう。ちょっと不安になったり。

でも、違ったようだ。「今はね 何も考えるなよ」というのは、たぶんもともと人間である相手にしか使わないはずだ。そして、きっと、「何も考えない」ことが大事なことなのだ。だって、何も考えるなというのは躾でもご褒美でもないし、たぶんルールでもないから。これはきっと、子犬にしてあげる目的、意図なのだ。

この詩には「君」についてほとんど描かれていない。描かれているのはさみしそうということだけ。だからどんな苦しみを「君」が持っているかはわからない。でも、それに対して書き手が提案しているのが、自分の子犬になって何も考えるなということなのだ。その提案が適切かどうかもわからないけれど、少なくとも、書き手は「君」の幸せを心から考えていて、そのための手段として「子犬にしてあげよう」と提案しているのだ。心から相手のためにしているから、きっとその軸はぶれない。この書き手ならきっとご主人様を貫ける。だからこの歌はすごく希望に溢れている。と思う。

 

羨ましい。理想的だ。いま気づいたけれど、僕はこの曲に描かれている扱いがご主人様と飼われ手の関係のそれだったからこの曲に惹かれていたのではない。この詩に表れる心持ちが、ほとんど理想に近いほどにご主人様としての考え方だったから惹かれていたのだ。このひとならきっと僕を完璧に子犬にしてくれる。それくらいの純粋さと、それゆえの狂気がシンプルに描かれている曲が「子犬にしてあげる」なのだ。

 

 

はあ。ご主人様。こういうことを、この曲が収録されたアルバムを聴くたびに考えて胸が苦しくなっている。大槻ケンヂさん、子犬にしてくれませんか?? もう遅い? この曲書いたのも30年前だし。

しかし。30年前にこんな詩書けるの、すごすぎる。30年前でなくともすごい。ご主人様の話が通じる人は何人か見たことあるけど、ご主人様側に立てるであろうという人は大槻ケンヂしか知らない。だから僕はずっと大槻ケンヂに恋してる。いつかご主人様になってくれますように。おじさまでもおじいさまでも良いから。いつか、いつか。