葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

自分語りを終える日

この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2023の11日目の記事です。今日は私、墨鼠(@prayfortiny)が担当させていただきます。よろしくお願いします。

adventar.org

 

自分語りをしようとして、やめた。

サークラアドベントカレンダーは今年で7年目(7年目!?)で、僕は毎年何かしらの文章を寄稿している。今年も「おれってアセクシュアルかもしれない」って話でもするか、と思っていたのだけれど、書こうとしてなんか違う気がしてきた。自分語りって、もうする必要がないように思っている。だから、自分語りはもうやめるという話をして、自分語りに代えさせてもらうことにする。ついでに言えば、これを見ている各位にも「いつまでも自分語りをし続けるな」という主張もしたい。まあその主張は一旦置いておいて、ひとつひとつ話していこう。

 

まず誤解のないように言うと、自分語りそれ自体に意味がないとは思っていない。自分の歴史として何らかの事実があり、その事実をどのように物語るかはとても大事なことだ。自分語りはそれを文章にすることで自分の今のスタンスを確定させる。過去に起こった事実自体は変えられないが、それをプラスに捉えるかマイナスに捉えるか(プラスマイナスに限らずどのように捉えるか)は変えられる。そのたくさんの道の中で「自分は自分の人生をこう物語る」とこれから進む道を確定させることは、今後のスタンスを決めるために重要なことだ。自分語りはそのためのいい練習台になってくれる。

ただ大事なのは、自分語りの先にも段階があるということだ。「自分の今までの歴史はこうだ」「それを自分はこういうふうに物語ろうと思う」という先に、「だから自分はこれから世界に対して何をする」というフェーズがある。僕が自分語り記事になんとなく違和感を感じたのは、僕は「これから何を作っていくか」で自己と世界を繋いでいこうとするフェーズに入っているからだと思う。

 

最後の自分語りをしよう。僕はこの一年、コミティアという同人誌即売会に出すための本をずっと作っていた。昨年9月に「3DCGと現実を融合した作品を作りたい」と思い立ち、3Dのキャラクターをモデリングし、3DCGと現実の合成方法を編み出し、作品を積み重ね、それを本にした。全て初めての試みだったし、独学で試行錯誤を重ねてなんとか形にしていった。作品のほとんどはTwitterInstagramに置いてあるので、余裕のある方はそちらを参照してもらえると話が早いと思う。見て。見てください。 

話を戻して。この一年の歴史を語ることはできる。どんな意図があってどんなことをして、その結果どう思ったのかを言葉にすることは可能だ。でもそれ以上に、僕が作った作品たちが代わりに僕の一年を語ってくれている。僕がなぜそれらを作りたかったかは作品の中に込めたつもりだし、その上に作品自体が他者への問いかけでもある。僕が世界に対して語るとしたら、自分語りという物語ではなく出版した写真集の方が適切だ。僕はそう物語ることにした。だからこれを最後にもう自分語りはしない。物語でなく、作るモノで自分を表明していく。

 

この判断に至った背景には、自分語りによる弊害というか、危うさのようなものに気付いたという一面もある。サークラアドベントカレンダーの自分語りは不特定多数に対して自分の物語を確定させて表明するが、その“確定”は薬である一方で毒も孕む。私たちがある物語に自分を確定させるその方法は自由である。しかし、一度確定させてしまうとその物語を容易には撤回できない。撤回自体は可能なのだが、実際にはその“語り”に捉われてその語り通りに自分を動かしてしまう人がほとんどだと思う。結果、私たちの生き方は私たちの語りによって縛られてしまう。危うい。

僕はこの一年、日記を書き始めた。友人と月一の進捗報告会を始めた。作品を作り、積み重ねて本にもした。だから今の自分があるとは思っている。だが、その物語(歴史と解釈の関係性)をあえて語らず、確定させない。不確定なままにして可能性を残し、自分が何なのかを常に自分に問いかけることが必要だと今は思っている。今は。確定させないこと。そういう道もある。

そして自分を語る代わりに、作品集を出す。ブログ記事を書く。人と対談してそれをラジオとして投稿する。そういうことの方が、より多くのことが伝えられるし、他人に対してより深いコミュニケーションが図れると思っている。何より、現在の自分についての物語を明示しないから、縛られることもないし撤回も容易だ。だから自分語りをしようとしたとき、違和感を感じたのだと思う。自分がアセクシュアルだということをただ書いて終わるよりも、アセクシュアルだとして自分がどう周りとかかわっていくかという行動の方が大事なように思う。だからあえて語らない。(個人的に聞いてくれれば全然話します)

 

 

自分語りの場でアンチ自分語りをするという挑発的な行動に出てしまったな。とはいえ、各位が自分語りをすること自体は全く否定しない。というか、先にも述べたように自分の位置を物語ることはとても大事だ。何の他意も揶揄もなく、やっていくとよろしいと思う。

ただ、会員各位に伝えたいのは、自分語りをする時代はいつか終わるということである。Lv.10のスライムを倒して経験を積む段階は大事だが、経験値を積んだら次はLv.20のスケルトンを倒しに行くべき段階が来る。いつまでもスライムを倒し続けるべきではない。

サークルクラッシュ同好会のベテランは自分語りというメディアで面白い文章を書く。しかしそれは彼らが自分に合ったレベルの思索を自分語りというメディアに落とし込むのが上手いから成り立っているのである。彼らの文章を否定、批判する気は一切ないのだが、どうか各位においては自分語りがいつまでも続くと捉えないでほしい。彼らは自分語りの先にある各自のアウトプットをしつつも、その前の段階である自分語りも上手にできているだけなのだ。騙されるな!!(騙してはいない)

 

silloi.hatenablog.com

Silloiさんの記事を思い出している。5年前、当時サークラを辞めた彼がサークラアドベントカレンダーに書いた記事を、当時は「そんな人もいるんだなあ」と思って読んでいた。しかし、年が経つにつれてこの記事の主張への共感が強くなっている。彼が主張しているのは「自分語りをやめろ、トレーニングをやれ」であり、僕の主張とは一見異なるが、底にある理念は近いように思う。どちらも自分の内部に閉じこもり続けるなという話をしているように思う。

自分語りはあくまで自分の中で閉じた内向的な行為である。もちろんそれを他人に向けて公開はしているのだが、「私は自分のことをこう物語ります」と公開することそれ自体には実は他者と関わろうとするスタンスはあまりないと思う。「私はこう思っています」と主張するところで止まっていて、それだけではまだ相手に何かを求めているわけではない。読者になにかを訴えたり問いかけたりしたらまた別だけれど。

一方でトレーニングをするという行為はそれこそ一見自分の中へ向いた閉じた行為に見えるが、それは他者と関わるための自分を築き上げていく外向的な行為に僕には思える。彼はインターネットから姿を消したので今何しているか全く想像がつかないが、おそらく普通に会社員をして周りとうまく関わっているのだろうと思う。

僕はそれを素晴らしいことだと思う。なぜなら、ほとんどの場合は人が生きる上では必ず他人と何らかの関わりを持たないといけないから。彼は自分なりの世界との関わり方を見つけたのだと思うし、それで生き続けているのならそれに越したことはない。人が生き続けることは善であるという思想を僕は持っています。人々、例外なくすべて生き続けていてほしい。そのために、それぞれにとっての適切な関係を築いていってほしい。

 

だから僕も、彼に倣って主張する。いつまでも自分語りをし続けないでほしい。

自分語りは自分の過去を整理する大事なフェイズだが、自分語りをしている間は停滞したままだ。自分の中の進捗も他者との関わりも。自分語りの先に成長はあるし、自分語りの先に人との関わりがある。自分語り(正確には自分語りまででピリオドを打つ時代)にはいつか終わりが来る。各位におかれては、そのタイミングを見誤らず、沼に嵌らず、健全に生きていってほしいと思う。心から。

 

こんなことを主張する人間がずっと文章を書き続けるのも奇妙なことだし、サークラアドベントカレンダーに寄稿するのもこれが最後になるかもしれない。おれは自分のしあわせを掴みにいく。皆様においても各自なりの世界との関わり方でしあわせになれることを祈っております。かしこ。