自分の悩みをありふれたものと認める(1654文字)
こんにちは。こちらは療養中のネズです。12月終わりごろに調子が悪いことを察したので、休み気味に動いております。エッセイなのでここからは「だ・ある」調で書きます。
それで、なんとなく思ったのだけど。人って、調子が悪いと「自分だけが世界で不幸」みたいな考えになる傾向がある気がする。今日書きたいのはこれだけです。
別に調子が悪い人の悩みがありふれているとかそういうことを言いたいのではなく。視野の狭くなり方として「自分の苦しみは自分特有のもの、ひいては誰にも完全には理解されないもの」という考えの陥りになりがちなのかもって。もちろん特有の部分もあるだろうけど、すべてがすべて理解されないわけでもない。それなのに、全部が理解されないと思ってしまう。
視野狭窄とはかんたんに言うけれど、意外とどう狭くなるかというと具体例を知らないわけで、その一つの形なのかなと思ったりした。(もちろん他の狭くなり方もいっぱいあるだろう)
具体的に。僕は人に評価をもらえることしか生きる指針がなくて、自分のしたいことなど無くて、でも自我の無い人は面白くなくて(評価がもらえなくて)、評価がもらえないなら生きる意味なんてないんじゃないか、みたいなことを考えていた。こんなに主体性がなくて苦しんでる人は僕以外にいないし、いないからこそ誰の何も参考にできないって思っていた。理解されないから誰に言う意味もなくて、一人で抱え込んで、うにゃうにゃ。
ただ、いったん題意に反することを書くけれど、僕は人よりだいぶ主体性がないと思う。かなり。少し視野狭窄を抜けた今でも、そこはやっぱりユニーク(独特、特有であること)だと思っている。自分の主体性をゲームのステージだと思っているもの。避けるべき難関みたいに。ヘンだよ。
話が逸れかけてる。自分の主体性のなさはユニークだと思っているけれど、でも人の評価を気にして自分のしたいことが分からなくなるって、そう言ってみればフツーのことだよね。登頂ルートが独特なだけで登ってる山は同じみたいな。全部が全部独特じゃないなら、登ってる山についての情報くらいならみんなと共有できるかもしれない。相談することにも意味があるし、悩みに対処する希望も持てる。少なくとも今は「誰にも理解されない」から脱却して、少し楽。
でも、「自分の悩みってありふれているんじゃないか?」って考え始めたときは、かなりきつかった。正直、自分の悩みが特有であることがある種の救いだったし、凡庸なものであることは受け入れられなかった。なんでだろうね。苦しい上に平凡だったら本当に救いがないと思っていたのかもしれない。今はそうでもないけど、溺れるときには藁をもつかもうとしていたのかもしれない。
受け入れ難かったけどそれを飲み込んだのは、それまで周りを見ていて「自分の悩みはユニークで理解されない」と考えてる人がだいたい調子が悪かったから。自分の番が来たのだなと思ったから。実は今でも調子が悪いと自認はできていないのだけど、状況的に調子が悪い確率が高そうだと判断して、休んでいる。
難しいな。「『自分の悩みはユニークで理解されない』という考えは誤り!」とか、「そう考えたら調子が悪いサイン!」とか言いたいわけでもないのよね。仮に精神の安定につながるとしても、その人がその時に訴えている苦しみを真っ向から否定したくはないし。そもそも、そうじゃないこともそこそこあるだろうし。ただ、視野狭窄の一つの表れとしてそういうのがあると知っていると、「念のために休む」という行動が取れたりするかなって。すごく微妙でずるいことを言っている気はする。
まあ、僕の今の休息期間が適切なのかはわからないけど、リスクヘッジ的に悪くない選択をできている気はする。そういう選択を取れたことは一つ良かったこととして、今ここに書き残しておく。
ところで、何もしないって難しいですね。U-NEXTをお試し契約したけど、何を見ればいいか分かんない。なにかいい映画とかあれば教えてくださいね。それでは、また。