葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

20240114日記

文学フリマ京都に行った。友人が本を作ったらしいので。行ったけど本は友人の含めて2冊しか買ってない。活字本のジャケ買い、全くできないから。

 

友人のブースにお邪魔して少し喋ったけど、人が多い時間だからあまり喋れなかった。開始着後とかに行くべきだったかな。もっと話したかった。今度通話に誘おう。

関係ないけど売り子役はコミティアの時より(若干)上手くできた。本当に若干だが。本の内容に思い入れがない分余計なことを考えずに声を掛けられる。コミティアはまた出たいけど自分の本の呼び込みはもうしたくない!!

 

別の友人も文フリに来てたらしいのでそのまま街中に行く。フランソワで固いプリンを食べましてよ。文フリで買ったもの*1を見せあったりした。固いプリンは見た目より苦めで大人な味。美味しい。

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あとはジョギング用の靴を買った。18,700円。今思うと高いが、良い靴って1万は最低出さないといけないし、ある程度値段積めば性能上がるし、まあこんなものだと思う。しかし運動すると決めてから物を買うまでが早い。だって決めたものね。

 

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あと御座候を買って食べた。初めて。美味しい。白あんと赤あん両方食べたけど、赤の方が王道で美味しいわね。買うのに並ばなければまた買いたいが、さて。高島屋寄るタイミングが思ったよりないのよね。

写真にないけど高島屋でみかんも買った。スーパーのやつと値段大して変わらないのに甘くて美味しい。買えるならデパ地下か八百屋だな。みかん、マイブームです。みんなの中ではブーム通り越して文化なんだろうけど。知らん!!

 

帰ってからは疲れて友人の本を読む。エッセイ集(単なるエッセイ集ではないのだが、解説が面倒なのでここではエッセイとしておく)。エッセイというものを真なる意味で初めて読んだかもしれない。人の深い深い内面をエッセイを通して覗き込むことを初めて行ったのだ。

その友人とは10回以上会って色んな話をしてきた。ある程度深い話もしたつもりだ。でも、そのエッセイには知らない内面がたくさんあった。一人の人間に対して見せる部分以外にもたくさんの部分が隠れていることに、おもしろさと寂しさとおそろしさを感じた。

目に入るオブジェクトは同じでも、人によってそれをどう目に映すか、どう切り取り、どの部分をカットし、どのように編集していくかは千差万別だ。その一文一文の記し方を撫ぜて、暗闇のような他人の内面に小さな光を照らしながら探索していく。それが本当のエッセイというメディアなのではないか、そう思った。

ちなみに。このエッセイは日記を編集したものらしい。日記という原始的な低いレイヤー層の書き方というのも個人的にうれしかった。その方が根底に近いものを読み解きやすいから。僕もどこかで日記を編集してなにらかの形で出してもいいのかもしれない。まだ全然どんな形かは思いついてないけれど。やってもいいけど、他人に提供できるものが何か見えないのよね。他者とのコミュニケーションにしていきたいから。

 

あと『夏への扉』も読了した。おもしろかったが、(全編のあらすじを知っていたため)やはり次に何が起こるかが読めてしまう。物語途中の謎が全部解答つきで見えてしまうのは、よくない。それでも細かい部分の小気味良さはあらすじでは知らないところだし、十分楽しめた。時間移動SFのあるあるが散見されるけど、たぶんこの作品から真似されて「あるある」になったのだろうな…と思ったりした。感想はやはりいま書く余裕がないので後回し。

(ところで、たぶん誰にも伝わらない話なのだが、新・世界樹の迷宮のフレデリカって、夏への扉のフレデリカが名付け元だったりするんですか。細かいことはいいので、はいかいいえで答えてください。教えて。)

 

文学フリマ、よかったな。文字で何かを作るというのもやってみたいものだ。小説は少し試してかなり不向きだということがわかったのだが(小説は直接的でそのままの表現をすると陳腐に見えてしまう。適度に婉曲的で、適度にわかりやすい塩梅を見定めなければいけない。好き勝手に放言する僕のかなり苦手とするところだ)。やるならエッセイか、何かに挑戦した過程の記録とかだろうか。後者はちょっと今お試しで作っているところなのだが。話が早いな。無理しないでね。突然分裂すな。寝ようか、寝ます。

 

*1:ところで、本当にところで、こういうときに使う“戦利品”という言葉が好きではないのです