葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

20230427日記

「語彙力」という言葉について考えている。語彙力がなくなるとか、誰の語彙力がないとか、そういうことを言うけれど、それは何かしらの能力の多寡によるものではないのではないか。バズったツイートとかを見ていると、画像貼ったり状況説明をしたりしたのちに、「草」「尊い」「クソデカため息出た」というような言葉だけが貼り付けてあったりすることが少なくない。なんとなくだけれど、「ここがこうで面白い」とか「この人のこの所作が良い」みたいに響いたポイントを説明するのはあんまりバズらない傾向にある気がする。

バズるのであればそれが人によって何かしらの心地良さがあるわけで、その心地よさが明確に何かはわからないけれど、そこで行われているコミュニケーションに仔細な説明は不要なのだろう(個人的な予想としては言葉の解像度を下げることで仔細な解釈の自由度をあげられるのが心地良い気がする)。だからつまりは、語彙の能力がどうこうではなく、そもそも語彙でやりとりの解像度を高めていくことが求められてなくて、そういう能力を使う以前の問題というか。

でもなんとなくそういう流れは嫌だなあと思う。僕はあなたがなぜそう思ったかを知りたいから、ちゃんと言葉で話してほしいなと思う。それに何より、流行によって人々の言語化能力が衰えていくのは、やだなあ。個人がどうこう言えないし何もできない範囲なのでやだなあとしか言えないけれど。

 

あー、ご主人様。なんで居ないの。置いていかないでよ、ねえ。お願いですから。

 

お昼ご飯が足りなかったので鈴カステラを買ってきて食べる。かわいいし美味しい。淹れた紅茶にとても合う。うれしい。いいお茶請けだな。

 

一乗寺のことを思い出す。北山はお洒落なお店もあるし地下鉄の駅もあるけど、ご飯屋さんは一乗寺のほうがよかったなあ。北山も悪くないけど、お店のバリエーション、美味しさ、値段を考えると100点満点で一乗寺の方が9点くらい高い。北山は、高い。高い店しかない!! 一乗寺、また住みたいな。地下鉄無いけど。

 

明日は出社だし、今日はゲームをしながら休むことにした。ブレスオブザワイルドをちょっと。気楽にやるにはいいゲームですわね。でもなんかゲームの楽しさ忘れちゃってる気もする。心持ちの問題なのかなあ。

 

1999

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