猫耳少女の手記

何の気なしに生きていく。

小人と僕

 先日、僕は「小人と怪獣と僕」という題でブログ記事を書いた。

 その記事なのだが、自分ではあまり納得がいかなかったのでここで書き直すことにする。

 上手くいかなかった要因の一つには、小人と怪獣の両方を一つの記事の中に納めてしまったところにあると考えている。つまりは欲張りすぎたのだ。そのため、今回は小人だけに絞って書いていくことにする。また、「小人と怪獣と僕」と話が被る部分も多いと思うが、お許しいただきたい。

 

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 さて、何から話そうか。やはり小人との馴れ初めから話すのがいいだろう。といっても、明確なエピソードがあって小人が好きになったというわけではない。小さな空想の積み重ねで小人の空想がどんどん好きになっていったのだ。

 僕は子供の頃から日常の中に小人や巨人の存在を仮定して空想するのが人に比べてかなり好きだったと思う。また、小人やそれに準ずる小さな生き物の物語も好きだった。チップとデールとか、ニルスのふしぎな旅とか、あと不思議の国のアリスとか。

 そして中高生時代にサイズフェチにハマってしまったのもあって、それ以降は日々自分や他人の背丈を妄想の中で変化させて過ごしていた。中高生くらいになると、様々な情報から空想することもできるようになる。身長がx倍になると体重や体積はxの3乗倍になるとか、力の大きさはxの2乗倍になるとか。例えば僕が10cmの小人になると、体重はたったの11.2グラムになる。10cmと言われるとまだなんとかなりそうだけど、11.2グラムって言われると儚すぎて無理っぽくない? そういうところに良さを感じてしまうのだ。

 話を本題に戻そう。僕が小人をどのように身近に感じてきたかの話だった。大学に入ってから僕はVRというおもちゃを手に入れた。このVRがまた小人や小人の世界を体感するためにうってつけで、実際に目の前に小人を出現させたり、もしくは自分が小人になってバーチャルな部屋を歩き回ったりできるのだ。VRを手に入れてから小人についての空想は一気に具体性を帯びた。例えば1/2の大きさでの体格差は意外と馬鹿にできない(大人と子供以上の体格差だから考えてみれば当たり前なのだが…)とか、10cmの小人は今すぐにでも折れてしまいそうな儚さを帯びているとか、逆に10cmの大きさになってみると人間の挙動全てが恐怖を帯びて見えてしまうとか。

 そんなこんなで様々な方法で小人について空想していたら、いつのまにか他の人間からだいぶ離れたところに来てしまった。僻地にいる事自体は良いのだけど、小人について語る時に僕の中で前提になっている知識が多くてそこから話さないといけないのは面倒くさいですね。

 

 

 さて、小人との関わりについては話したが、肝心の小人を好きな理由について話していなかった。これについても複数理由があるので説明するのはなかなか難しいのだけれど、とりあえず一つずつ説明していく。

 まず一つあげられるのは、子供の頃からずっとある小さな世界へのワクワクするような感情である。これが一番シンプルだが説明が難しいかもしれない。「だって身の回りのものが全く姿を変えて自分の前に現れて、自分と周りのものとの関係性が大きく変わってしまうんだよ?」 この一文で言いたいことが全て言い終わってしまうのだ。これで伝わらなかったらそれ以上伝えられる自信がない。

 もう少し具体例を挙げながら説明しよう。不思議の国のアリスで、小さくなったアリスはキノコを椅子にして座り、花や芋虫と会話する。キノコを椅子として使うというのは、キノコと同じくらいの大きさになって初めて可能になる。背丈が縮むことによって関係性が変わり、全く別のものとして目の前に現れる。その結果として例えばキノコを椅子として使えるようになるのだ。また、花や芋虫と会話するというのは花や芋虫と同じ目線に立ち、近い立場になることで可能になるのではあるまいか。体が縮むことで、足元の下位存在だった花や芋虫がコミュニケーションできる同等な存在に変わるというわけである。このように、小人になるというのは自分と周りとの関係性を大きく変えてしまう。その新たな関係性に僕はワクワクしてしまうのだと思う。

 

 次にあげられるのは、小人と人間との関係がとても明確であることだと思う。力の上では絶対的なほどに人間側に分があるし、そのせいで気持ちの上でも人間側優位のコミュニケーションになってしまう。その明確な関係が非常に分かりやすくて羨ましくなってしまうのだ。これについては少し補足説明がいると思うので、まずは僕が曖昧なコミュニケーションに疲れていることから説明しよう。

 現実世界でのコミュニケーションでは多くの場合、両者が完全に平等であることはない。例えば男女の間には多くの場合力の強さに差があるし、上司と部下のように権力に差がある場合もある。もしくは単純に気遅れしてしまう性格の人間と強気な性格の人間との間にある気持ちの上での優劣とかもあるかもしれない。

 また、その一方で、現在この世界では上下関係が見えるような関係でもできるだけ平等に振る舞うのが良いとされている。優位の人間がその力を振りかざし強引に相手を動かすような振る舞いはハラスメントなどと言われ良くないとされる。また、成人した人間が誰かに依存するような弱い生き方もあまり良くないとされる。自立し、全ての人間に平等に振る舞うような人間が理想とされ、少なくとも僕はそう生きるように強制されているような気がしている。窮屈。

 でも、小人と人間くらい力の差が絶対的なら、ちょっとの心がけ程度で平等になんかなりっこない。小人は弱く生きて人間を崇拝してもいいし、人間は小人を可愛がっても虐めてもいい。それが許されるような気がするのだ。だから僕は小人になりたいし、小人と関わりたいと思っている。僕は上下関係のある人間関係の方が楽だから。

 

 最後の理由は二つ目の理由と重なる部分も多いのだが、今言った「上下関係のある人間関係の方が圧倒的に楽」という理由になる。先ほど言ったように、小人と人間との関係では平等になんかなれっこない。そんな小人になる妄想を何度もして、絶対的上位存在とのコミュニケーションを(空想で)繰り返す中で、僕は上下の明確な関係の方が楽なように思えてきたのだ。

 小人の生活は基本的に人間の手のひらの上で転がされるような生活だ。人間の与えてくるものをそのまま享受するしかない。それが自分にとって良いものであっても悪いものであっても。そのうち、人間に与えられ生かされている生活が幸福に思えてくる。突拍子もないかもしれないが実際に僕はそうなったのだ。

 もう少し説明しよう。小人として人間の与えてくるものを受け取るだけの生活を続ける。もちろん人間は恵みだけを与えてくるわけではないので、痛みや恐怖を味わうこともあるかもしれない。しかし、ここで防衛機制の合理化のようなことが起こる。人間が与えてくるものはどんなものでも素晴らしい、自分のためになる、そのような考えが湧きおこってくるのだ。

 そして、人間に与えられることをしあわせに思い始めると、次は人間に殺されず生かされていることが幸福なように思えてくる。いつでも殺せるのに殺されていない。それだけで自分の存在を肯定されているように思えるのである。そしていつの日か毎日人間に祈るようになる。今日もお恵みを与えてくださいますように。…僕がおかしいのだろうか? でも僕はそう思ってしまったのだ。

 逆に、そこまで来ると人間として小人と触れ合う優位側に立つのも悪くないように思えてくる。自分の一挙手一投足に翻弄されて懸命に生きる小人を見ると可愛くてたまらなくなる。もちろん虐めたりはあんまりせずに一生懸命可愛がる。そして自分がこの脆弱な生き物を生かしているのだという共依存的な感情に溺れていくのだろう。ふふふ、小人として生きるにしろ小人と共に生きるにしろ随分不健康だね。

 あー、なんだっけ。そう、明確な上下関係がある方が僕は良いという話だった。もう僕は小人の崇拝と人間の共依存を知ってしまったからもう平等の関係なんかには戻れないのだ。人間に身を委ねていればいい小人や、小人に好きに操作を与えられる人間とは違い、人間同士の関係は自分と相手のことを両方考えながらお互いに少しずつ協調しなければならないのだ。難しすぎる。それはそれで完璧に同調できたときの気持ちよさみたいなものはあるんだろうけど。

 

 

 さて、しかし現実には小人はいないし、小人になることもできない。「小人と怪獣と僕」ではそれでもやっていくしかないよね、みたいなことを言ったけどあれは半分虚勢だ。確かに対等な関係をやろうとはしているけども、その一方で1日10回は「小人…(祈り)」と呟いている。もう病気っすよ、一種の。

 とはいいつつも、まあやっていくしかないのも本当なわけで。それはかなり強く理解しているんだけどね。今日実行するのではなく明日の自分に投げ続けているだけで。いやー、よくない。

 せめて小人の妄想に逃げないようにしたいっすね。Twitterで小人について話しているときはだいたいソレなので見かけたらいいねとかしないで放置していただければと思います。いつか対等な関係をやって健全に小人の妄想ができるといいなあ。

 だいたい話したいことは話せたのでこれで終わりにします。「怪獣と僕」というテーマでも書いてみたいですね。それでは、また。