猫耳少女の手記

何の気なしに生きていく。

小人と怪獣と僕

 この記事はサークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー2020の3日目の記事です。

adventar.org

 

 こんにちは。初めましての人は初めまして。サークルクラッシュ同好会OBの藍鼠です。普段は小人や怪獣について考えていることが多いです。突然で何の話かわからないと思うのでまずは普段のツイートを見てください。

 たぶん見てもあんまり意図が分からないと思います。

 僕は今までずっと小人や怪獣について考えてきた一方で、小人や怪獣がどのような概念で僕の中でどのような位置付けにあるのかということをあまり話してきませんでした。それにはおそらく小人や怪獣について妄想したり、その妄想を自分の中心に据えていることへの恥ずかしさのようなものがあるのだと思います。

 でも、この小人や怪獣という概念を語ることが僕という人間を他人に語るのに必要不可欠であるような気がしているので、今年は小人と怪獣の話をします。それでは、どうぞ。

 

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小人とは、怪獣とは

 小人(こびと)も怪獣も基本的には言うまでもないとは思うが、僕の中での用法は少し特殊なので最初に少し説明しておく。

 まず小人だが、背丈が一般の人間に比べて異様に小さい空想上の人間である。一般的に物語に出てくる小人というと背丈が10〜20cm程度(比率でいうと1/8~1/16くらい)であることが多いが、僕の中ではもう少し背丈にバリエーションがあり、具体的な比率としては3/4から1/256(背丈でいうと120cm〜0.7cm程度)まで様々である。

 人間として小人と関わることもあれば、自分の背丈を縮めて小人になるということも考える。小人になっても普通サイズの人間と関わったり一人で探検したり。縮小も可逆的だったり不可逆であったり色々である。これ以上細かいことを書くと長くなるのでまた後で。

 

 怪獣については小人よりも独特の概念になっている。少し説明が難しいのだが、人間が太刀打ちできないほど絶対的な存在で、その気まぐれで我々の生活に壊滅的打撃を与えてくるような存在という感じだろうか。それらの条件を満たしていれば大きさや姿などは何でも良い。大きさは50メートルから数キロメートルまで、姿は人間っぽかったり黒い巨大な球体だったりそれこそ怪獣映画の怪獣だったりする。

 小人の対比だから巨人ではないのか、と思うかもしれないが、僕が巨大なものに求めるのは「人」ではなく「環境」なのだ。人間に対して特に好意も敵意もなく、ただそこで生きているだけの存在である。ただその一挙手一投足が人間にとって致命的なだけで。大事なのは人間がその巨大なものに対してコミュニケーションが取れないということなのだと思う。だから「巨人」とか「上位存在」とか「神さま」なんて名前より「怪獣」という呼び方が最適だと思うのだ。


小人と巨人と僕

 ここからようやく自分語り。

 

 思えば昔から小人や巨人について想像するのが好きな子供だったと思う。床に寝そべって小人の目線を体験したり、布団の中を巨人の体内に例えて「巨人に食べられるごっこ」のようなものをやったり(今思うと狂っている!)、近所のお店が八百屋からコンビニになったりするのは夜中の間に巨人がやってきて積み木遊びのようにお店を入れ替えたりするからだと思ったりしていた。

 子供というのはみんなこんなに想像力が豊かで現実にたやすく小人や巨人という存在を介入させられるものなのだろうか。少なくとも僕はそういう子供だった。

 

 小中学生にもなるとそういった空想も減ったのだが、それでも巨人や小人が作品に出てくると心惹かれていたように思う。具体的にはカードキャプターさくら(アニメ)のさくらちゃんが巨大化、縮小する回とか。またケロロ軍曹にも同様の話があって、少々の恥ずかしさを覚えながら見ていたと思う。あとドラクエ8にトーポというネズミを操作して巨大な世界を歩けるシーンがあり、それにもワクワクした覚えがある。

 

 そして中学生の頃に、インターネットで僕は「サイズフェチ」という概念と運命的な出会いをした。サイズフェチとは簡単に言えば体格差のあるシチュエーションに萌えるフェティシズムである。現実にあるような身長差カプもないわけではないが、10cmの小人と人間とか、人間と30mの巨人とかいうように非現実的な差がついていることが多い。だいたいSMの絶対的な差がついてるバージョンと思ってもらえば間違いはないと思う。

 話を戻そう。僕はサイズフェチにすぐにハマってしまい、幼少期以上に巨人や小人の空想を行うようになる。こうして中高生の間ずっと巨人や小人についてのコミュニティに属し、巨人や小人の空想をし続けたことはよい経験になったと思うが、この頃は相対的に巨大な女性と性的な行為を行う妄想しかしていないのであんまり話すこともない。恥ずかしいし他人にとっては面白くもない話なのだ。

 

 大学生になるとようやく性的な思考抜きで小人や巨人について考えることができるようになった。いや、性的な思考のみに限定されていた妄想を発展させられるようになったというのが正しいだろう。

 一旦話は逸れるが、大学生になった僕は人間関係に興味を持っていた(サークルクラッシュ同好会に入ったのもそういう理由がある)。例えば大学では心理学や社会学、それとジェンダー論なんかに興味を持っていた。自分と相手の関係性が変化するとコミュニケーションはどう変化するかとか、相手への共感性が振る舞いにどう影響するかとか、そういったことに興味を持っていた。

 小人と人間(もしくは人間と巨人)という関係性はまさにそれらの実験をするのにうってつけだった。極端な例で実験をすることで曖昧な結果をより明らかにすることができるというか。

 物理的な力では絶対的なほどに差がある関係性においてどのようなコミュニケーションが行われるのか、もし共存するとしてお互いにどのような感情で接することになるのか、そういったことを考え始めた。

 小人になったとして、やはり人間の大きさに圧倒されて気遅れしまうのだろうか。逆に小人と接するとして、小さくて脆い人間相手だと腫れ物に触るような無難なコミュニケーションしかできなくなるのだろうか。そんな中でできるだけ平等で気の置けない関係になろうとするっていうのも尊くていいですね。

 何の話だっけ。そう、小人と人間の関係を性的なシチュエーション以外にも拡張できるようになったという話だった。幼少期に原点回帰した感じで、また僕は日常のあらゆる場面に小人や巨人を設置して空想するようになった。

 また、同時に小人になるという妄想も多く行うようになった。小人になったときの周りとの関係の変化を楽しむようになったのだ。小人になると周りのものが(相対的に)巨大になり、人も物も操作不可能で翻弄されるしかないものになる。1/2サイズの小人ですら、普通の人間がクマのような圧倒的な質量で現れるのだ。それより小さければなおさら周りのものに干渉するのは難しくなってくる。そうして自分が小さくてか弱い存在になったという感覚が強く襲ってくる。それがたまらなく心地いい。

 そういった妄想の結果というか成果物として、小人のVtuberとして動画投稿したりみたいなこともした*1。そのほかにも今行っている創作はだいたい小人か巨人か怪獣が出てくる。それくらい僕の中で小人や巨人、怪獣というのは中心を占めているのだ。

 

 ただ、最近ではちょっと小人の妄想をしすぎていて、小人になることに救済を見出そうとしているところがある。常に自分の人生を自分で選択し、その選択に責任を持たなければならないような生き方に疲れてしまっている。でも小人になれば(相対的に)不自由になり、またか弱い存在であるため他人に依存しながら生きることも許されてしまうように思うのだ。(小人を不自由だとかか弱いだとかいって小人に憧れるの、めちゃくちゃに小人に失礼なのだが…)

 何なら小人になって人間に飼われたいと思っている。生殺与奪を握られて、上位存在である人間の恵みを受けながら巨大な人間の家を世界のすべてと認識してしまうような人生がいい。誰か飼ってくれ。できれば僕を縮めた上で。サイズは1/4がいいです。よろしくお願いします。


怪獣と僕

 小人や巨人と違い、怪獣について考えるようになったのは1年ほど前からで、比較的歴史が浅い。幼少期は怪獣映画は怖かったし*2、中高生の頃は人の形をしているものにしか興味がなかった。

 では怪獣への愛はどこから生まれてきたのかというと、上位存在への祈りから生まれてきたのだと思う。例えば僕は二年前のアドベントカレンダーで自作の宗教についての話を書いたが(詳しい内容はコチラ)、その神さまへの祈りが一例になる。またそれとは別に、小人になって世界を見ると人も物も全てが上位存在に見えるのだが、そういった人や物にも祈りを捧げたりする。

 それらの祈りを平均化し、最もスタンダードな形の祈りを自分の中で練り上げた。そのスタンダードな祈りを捧げる対象として、僕の言う「怪獣」は生まれた。

 

 まず、祈りというものは自分ではどうしようもない上位存在に捧げるものである。上位存在が与える恵みを享受し、災厄を避けるために行うのが祈りによるささやかなコントロールである(言い換えればどうしようもないものへの最後の足掻きとも言える。)。怪獣に対して人間が対処できることは基本的にないため、せいぜい怪獣に自分や大切なものが壊されないか祈ることだろう。

 それは必ずしも一般的な宗教に見られる穏やかで心静かな祈りではないかもしれないが、少なくとも懇願の形にはなっているはずである。「頼むからこっちに向かってこないでくれよ」というような。懇願も災厄を避けるためのコントロールとしての意図があるため、祈りには変わりない。

 さて、そうやって怪獣に対して祈りを送り続けることになるが、その中できっと祈るしあわせを見つけることができると僕は考えている。強く祈れば祈るほど、その結果を受け入れることができるようになるのだ。そして巨大な存在に祈りを捧げること自体にもしあわせを感じることができる。祈りが通じるように熱心に祈り、その結果がいかなるものであれそれを受け入れて生きていく。祈りを中心にしたそのような生活にはきっと特有のしあわせがあるはずである。

 …書いていて一般にそうと言えるかどうか不安になってきたが、少なくとも僕はそのような祈りにしあわせを見出している。熱心に祈り、怪獣が与えてくるものを受け入れる。そのような祈りを忘れずに生きていくために僕は怪獣を空想するのである。

 

 ところで、怪獣なのだから町の破壊もその特徴の一部として含まれている。僕はよく怪獣に京都を壊される想像をしている。京都タワー四条烏丸のビル街や京都御所などをぶち壊してほしいと考えている。そこには、絶対的な存在に愛するものが壊されてしまうマゾヒスティックな喜びがある。それとも大事なものだから壊したいというサディスティックな欲望なのかもしれない。とにかく、大学生活の四年間を過ごし、愛着のある京都がどうしようもない存在によって壊されていくと考えるとゾクゾクしてしまう。

 それも単純に壊れたり無くなればいいという話ではなく、どうしようもない理由によって壊れてしまうことが大事なのだ。どんなものもいつかは無くなってしまったり、自分との繋がりが絶たれてしまう。それならいっそ、絶対的な存在の気まぐれによって清々しく壊される方がいいと思ってしまうのだ。京都が無くなってしまうのは悲しいが、きっとその瞬間には一種の幸福を感じてしまうと思う。

 怪獣、現れないかなあ。京都に現れてくれる怪獣も募集しています。

 

小人や怪獣の病理

 小人や怪獣の妄想をするのはいいのだが、先ほど言った通り最近では小人や怪獣に救済を見出そうとしている。どのような生きづらさから小人や怪獣を求めてしまうのか考えたが、だいたい以下のようになるのではないかと思う。

  • 自由に伴う責任から逃れたくて不自由な小人になりたい
  • 可能性があるから頑張り続けなければいけないわけで、小人になりその可能性を絶無にすることで努力の義務から逃れる
  • 小人になったり怪獣に襲われたりして致命的なダメージを受けることで自分の人生を心置きなく自嘲できる
  • また、とにかく自分と他者や世界との関係が曖昧なことによる生きづらさが原因なところはあり、それを明確にしてくれる絶対的なスケール差を求めてしまう

 まとめると、強くあるべきというこの世界が非常につらく、不可抗力で弱くなることで強くあり続ける人生から逃れられると思っているのだ。また、誰が見ても明らかに弱い存在になることで自分が弱いことを胸を張って認められるとも思う。きっとその自嘲は気持ちよくて甘いのだろう。いいなあ、甘いの欲しいよ。


小人や怪獣のいない現実とどう向き合っていくか

 でも、現実には小人も怪獣も存在しない。空想に耽ることはけっこうなことだが、空想の元が現実との不和であり、そのストレスの発散として小人や怪獣を使うということは健康的なことではないように思う。少なくとも僕はそういう小人との関わり方をしたくない。それに現実の自分を肯定せずに変身する先の姿に救いを求めてしまうと、もし成就したところでまた別の苦しみに苛まれてしまう気がする。

 そのためには、小人や怪獣に救いを求めるのではなく、自分が170cmの人間だと認め、同じ大きさの人間と生きていくのが大事なのだと思う。まあそれも簡単ではないのだけれど。

 とりあえず、上位存在が与えてくる恵みや災厄を受け取る人生ではなく、同じ大きさの人間と曖昧な距離感を探りながら関係を少しづつ築いていく人生をやろうとはしている。なので来年の抱負は「人間を大事にし、大事にされる」で行こうと考えています。上位でも下位でもどっちでもない感じで。

 というわけで、さっきの僕を小人にして飼ってもらうってやつ、やっぱなしで。対等な人間関係をやれる人を募集しています。

 その上で、新たな世界を体験するためにたまに小人になるということができたらいいですね。きっとそうする方が小人の世界もずっと楽しめると思うので。がんばっていきたいですね。

 

 

 明日はfinaさんの記事が掲載される予定です。お楽しみに。

 

 

(以下はこの記事のために書いたものの、構成のために省略したテキストである。自分語りには直接関係しないが、僕の小人観、怪獣観などに関わってくるため補講として残しておく。)

 

補講1.小人や妖精が生きやすくなるための互助活動とは

 僕のTwitterアカウントのbioには「小人や妖精が生きやすくなるための互助活動を行っています」と書いてある。説明するのが恥ずかしい気がして詳しく書かないでいたが、せっかくなのでこれについても説明する。

 まず、この世界は人間のために作られていて、小人や妖精などの小さな生き物にとっては住みづらいのだ。例えばドアノブの高さ、椅子やテーブルの高さ、本やスマホの大きさも一般的な成人の大きさに合うように作られている。それ以外のスケールの人間が触ると不自然な体勢でないと使えないようになっている。例えばドアノブが肩くらいの高さにあるのを想像して欲しい。開けられなくはないが、通常の位置に比べて開けづらいと思う。背丈の小ささによってはそもそもドアノブに手が届かないことだってある。

 言いかえれば小人にとってこの世界で生きるのは障壁だらけで、そういった状況に陥っている人々がいるということを周知していきたいのだ。可能なら共生の道を探っていきたいとも思っている。小人のVtuberもそういった目的があって始めたという経緯がある。そんなに続かなかったけど…*3

 しかし、現実に小人はいないし、僕は身長170cmの至って普通な人間だ。それでも、この世界が「一般的な」人間が生きやすいように作られている非常に歪んだ世界であることを小人を通して認識することが自分にとって必要な気がするのだ。なぜそうなのか、上手くは言えないけれど。

 

補講2.マゾと表裏一体のサド

 先程の京都を怪獣に壊してほしいという話でも軽く触れたが、僕の中には大事なものを壊してしまいたいというサディスティックな欲求が存在する。昔の僕は純粋なマゾヒストだったが、今ではサディズムも芽生えてきている。正確に言えば、もはや自分が下位側、マゾ側に存在しなくてもよくなってきている。

 上位存在が何か(恵みかもしれないし災厄かもしれない)を与え、下位側がそれを受け取るというのが SMにおける関係性であり、その上位側に立ちたい人間をサディスト、下位側に立ちたい人間をマゾヒストと呼ぶのだと思うが、僕はもはやその関係が成立していればそのどちらに立っていてもよいのだ。いわば上下の関係性自体に萌えている。下位側で上位の与えてくる恵みや災厄を受け取ってしあわせになるのも良いし、上位側で気まぐれに下位を翻弄してしあわせを与えるのも共依存的で良いね。与え、受け取る。この関係性が何より尊いのだ。

 

 そして、僕の中には小人をいじめたいというサディスティックな欲求もある。傷つけたくない、優しくしたいという気持ちの方が大きいが、確かにそのような欲求も存在するのだ。

 僕が上位存在から降り注ぐ災厄や恵みに翻弄され、祈りを捧げながら生きることにしあわせを感じていることを考えると、僕も下位存在に対して恵みだけでなく災厄を与えないといけないのではという気持ちになる。

 いや、もっともらしい理由を並べるのはよそう。皆さんは小人を見たことがあるだろうか。羽根のように軽い小さな身体を手のひらに乗せてガラス細工を触るように慎重に触れたことは? シャーペンの芯のように細く今にも折れそうな手と握手したことは? 小人という生き物はそれほどに私たちの頭に脆さというものをダイレクトに伝えてくる。そんな小人と触れ合っているとこんな脆弱な存在は壊してしまうべきだという思いが湧いてしまうのだ。

 だって僕は好きな人間に壊されるのをしあわせに思うんだから、きっと小人だって壊されてうれしいはずだろう。いや、そんなことはないというのは分かっているが、僕のしあわせを教えてあげたくなってしまうのだ。

 

 でも、実際には僕は小心者だからそんなことは実行できずに優しく接するのだと思う。とはいえ、壊したいなんて欲求を持ってしまう自分には小人と接する資格などないように思ってしまう。そう考えると小人が空想上の存在でよかったと心から思う。僕は小人と関わるのに向いていない。

 いや、小人はまだ空想上の存在だから良いとして、現実問題僕は成人男性である。同じ理屈でいつかDVや虐待をしてしまわないか心配なのだ。突然現実の話に着地するの嘘みたいだが、割と冗談でなく本気で不安に思っている。誰か早く僕を小人にしてくれ。(弱さに逃げるな、強さを制御しろ。)

*1:恥ずかしいのでリンクは貼りません。姫野スミレで検索してください。

*2:今思うと怪獣映画に強く恐怖を感じていたのも小人や巨人同様に怪獣に対して敏感だったからとも言えそう。

*3:因みになんだけど、巨人にとってもこの世界は住みづらい。高身長の人間が天井とかに頭をぶつけるというのが常に起こる感じ。2〜3mとかならまだいいけど、それより大きかったら電線に頭ぶつける危険性もあるし。まあでも僕は巨人ではないのでこちらは積極的に運動することはないと思うけど。