葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

社会に出ても役に立たない数学

 「数学なんて社会に出て何の役に立つのか」

 恐らく誰もが一度は聞いたことのある台詞でしょう。毎日日本のどこかで中学生辺りを中心に誰かが発している言葉でしょうし、まれに有名人や政府関係者などがこう発言したりもします(そしてほぼ確実にインターネットで炎上しますが、それは別の話です)。

 数学が何の役に立つのかいまいちピンと来ない人でも、数学は社会に出たら何の意味も無いという意見にはとりあえず反対する人が多いようですが、自分はこの意見はあながち間違いでもないと思うのです。

 

 誤解が無いよう言っていきますが、自分は学問としての数学は論理的思考力や問題解決能力などを育み、それらの能力は社会に限らずこの世を生きる中で十二分に利用できるものなので、学問としての数学は社会に出て役に立つ、と考えています。この「学問としての数学」というのがポイントで、これは「数学なんて社会に出て(以下略)」という言葉の中で用いられている数学とは似て非なる概念だと思っています。早い話、学校で教わる数学は学問としての数学とは別物なんですね。

 そもそも、よく言われることですが、学問というのは西欧からの舶来品で、日本には全く起源のないものであります。昔の日本人は日本を西欧に追いつかせようとして、そうする中で様々な問題に直面しました。西欧は諸問題を学問を用いて解決したため、日本も学問を輸入してこの問題を解決しようとしたのです。しかし西欧と同じ方法で学問を発展させていくのでは西欧に追いつけはしないため、部分的に利用可能性がある部分のみ輸入しました。実はここで日本と西欧での学問の認識が分かれてくるのです。西欧にとっては学問とは単に観察に基づく事実の追求の積み重ねであり、その結果が偶然にも諸問題の解決に使えただけに過ぎません。一方で日本にとっての学問とはその過程をすっ飛ばして、問題解決の道具として捉えられました。言うまでもありませんが、この認識の相違がまさに学問としての数学と学校で教えられる数学の相違であります。

 現行の日本の学校教育でも、基本的には学問は問題解決の道具、特に入試突破のための道具という風に捉えられています。学問の本来の意味が語られることもあまりありません。となれば学問は問題解決のための道具だという認識が学生の間に広まっても仕方ありません。

 

 さて、ここで初めの命題「数学は社会に出て役立つのか」に戻ってみましょう。しつこいようですが、この”数学”とは問題解決のための道具としての数学です。

 数学の基礎部分である中学数学、高校数学の時点でもう既に実生活で使えそうな道具はありません。現実世界には因数分解するような式は転がってないし、積分するようなグラフだって存在しません。せいぜい確率の計算や、図形の面積や体積の公式が少々役立つくらいでしょう。況や大学以降の数学は言うまでもなく無益です。勿論これらは他の学問(主に物理学)において非常に役立ちますが、それらの学問に関連する職に就かなければやはり社会では役に立ちません。

 問題解決能力などの上昇が見込めれば社会でも役立ちますが、それらを伸ばすのも難しそうです。というのも、問題解決のための道は自分で考える物ではなく、授業の中で与えられる物だからです。試験や受験で出るパターンを暗記し、試験ではそれらを状況に応じて適切に使い分ける。この方法では状況を判別する能力くらいしか伸びないでしょう。これだけを伸ばしてもマニュアル人間しか育成できません。

 因みに、数学が社会に出る前に役立つ面として、受験があげられそうです。試験で良い成績を取れる人は物覚えがよいため、そういう人を選別して難解な学問(これも問題解決のための学問かもしれません)を適切な人に教えることが出来ます。ただこの場合、正確には数学が役に立ったのではなく、数学を容易に理解できる頭が役に立っているので、やはり数学自体は役に立っていません。

 そういうことを鑑みた結果、基本的には数学は社会に出ても役立たないと僕は結論付けるのです。

 

 ここで話題を変えて、数学を社会に出て役に立つ形で教えるべきか、即ち、学校で学問としての数学を教えるべきかについて論じてみます。

 社会の役に立つのであれば、本来の学問のように数学を教えたほうがいいと思うかもしれませんが、問題はそう簡単ではありません。ここで、二つの数学の特徴を箇条書きにしてみます。

 学問としての数学

  • 問題解決能力や論理力などが向上する。即ち、応用性が高い。
  • 根本から理解しはじめるため、時間が掛かる。
  • さらに、不向きな人間にとってはどう頑張っても理解できない可能性がある。

 道具としての数学

  • 応用性が低い。
  • 特定の問題を解決するだけなら時間はほとんど掛からない。
  • 道具なので、難しいものでなければほぼ万人が取得できる。

 このように、それぞれに長所と短所があるのです。乱暴に言ってしまえば前者はハイリスクハイリターン、後者はローリスクローリターンなのであります。恐らく、ハイリターンよりローリスクを取った結果が現行の学校教育なのでしょう。学問としての数学を万人が取得できないというのは無視できない問題で、それも道具としての数学で教える理由の一つになりそうです。

 

 さて、道具としての数学が教えられている理由は分かりました。しかし、それは学問としての数学が教えられない理由にはなりません。ハイリスクハイリターンとローリスクローリターン、二つの選択肢があるのならそれぞれの学生がどちらで学ぶか選べてもおかしくないように思われます。

 一部の子供だけでも本来の学問を教えられるのであれば、学力の向上や有力な人材の育成に繋がるかもしれません。個人的には文系学部の縮小や英語を小学校から導入すること(これらは学問を道具的に見ている感じがありますね)よりもそちらの方がよい結果を生むと思っております。ここからは学校で本来の学問を教えることの可能性について模索してみます。

 まず、そのためには本来の学問を志すためのクラス、もしくは学校が必要です。一つの学校全体がいきなり本来の学問のみにシフトするようなリスキーな行動を取るとは考えにくいので、特別クラスが創設されるのが現実的でしょう。さらに、本来の学問には向き不向きがある(と僕は思っている)ため、脱退がある程度容易である必要があります。この点においてもクラス制にするほうが都合がよさそうです。

 後は新たに指導要項を作れば終わりのようですが、ここで新たな問題が生じます。誰が指導要項を作り、誰が教えるのかです。指導要項を作るのはまだしも、教える人材をどう確保するのかが非常に重大な問題です。個人的には大学教授を除くと優れた人材はなかなか教員にならないように思うので、大学以外では教える人材が見つかりにくいのではないでしょうか。

 しかし、大学から教えるにしても、高校までで道具としての学問に慣れてしまう学生が殆どになってしまい、本来の学問を志したがるのは何もしなくても自分からその道を歩むような学生だけになってしまうのでは、という危惧があります。

 このジレンマを避けるために、私立校や塾のような学校以外の教育機関が考えられますが、こちらはさらに厳しい。学生のとりあえずの目標が受験突破ということもあり、道具としての学問の即席性に惹かれて人々は塾に集まるのであって、そんな人々にとって本来の学問なんて効能が地味すぎて見向きもされないのではないでしょうか。この資本主義の世の中、実際の価値より人々が興味を持つかの方が重要なファクターなのです。

 逆に言えば、政府が強制して本来の学問を強制すれば、実際の価値が大きいほうへ民衆を導けますが、今の民主主義の世の中でそんな制度はまかり通らないでしょう。

 結論としては、本来の学問は魅力的なメリットがあり、取り入れるべきではありますが、学校教育でこれを取り入れるのは机上の空論の域を出ず、学校教育に革命を起こさない限り不可能という残念な結果に落ち着きました。

 

 それでも、やはり僕は本来の学問の有用性はかなり大きいと思うので、今後新たに本来の学問を普及させる機関が現れたり、もしくは学問ブームかなんかが起こったりしてほしいと願います。他力本願ですね(誤用のほう)。そんなわけで誰かよろしくお願いします。