葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

20220823日記 美術館と動物園と縮小のこわい話

先週末、外出をした。植物園を通り、美術館に行き、動物園を訪ねて、ついでに本屋とデパ地下を回った。基本的に創作のエネルギーは周りのものへの感動だと思うのだが、そのインプットを気を抜くと忘れてしまうのでこうやって能動的に行くのが良いのだと思う。

 

美術館は京都市美術館のセレクションルームを回った。日本の近代美術と、海外の版画が中心に飾られていた。とりわけシュールレアリスム方向のものが多かった。

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版画の黎明期の作品については、リトグラフは単純な大量生産のためのツールだったのが次第に表現技法の一つとして発展していく様が見て取れた。それまでの技法ではできない表現をいくつも発見していたのに感心した。いつの時代も先駆者が色々試して文化ができていくものなのだなあ。

リトグラフではミロ・ジョアンのものが良かった。一見すると落書きのような乱雑な線ながらも、その強弱を追っていくとどう考えても不自然で、伸ばした手が確かなものにたどり着くことなくどこまでも吸い込まれていくような感覚があった。本当に気持ちが悪い。人の感情をシンプルな線でこんなに揺さぶれるのかよ。

他にも深淵がたくさんあって本当に気持ち悪かった。正直全容が見えないし、今の自分の目にはナンセンスに見えるけれど、作品の中にある作者の熱はそこに明確な何かがあることを告げている。部分部分を切り取ってみれば意味と意図は確実にある。しかし全体はもやがかかって見えない。この不安さよ。

海外の版画のあと、海外の作家に影響を受けてシュールレアリスムの作品を作った日本の画家の部屋があった。それまで版画の50センチ司法程度の小さな作品が多かったが、その後に油彩画を見せられるとコントラストで迫力が感じられた。幻想を現実から上手く対比して印象的に描いているのが本当にすごい。蠱惑的で、意味があるようなないような、夢に似たようなものが描かれている。しかし意味はあるのだ。というか、ただの狂気ではここまで強い意図で描けはしない。

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この部屋は撮影可能だったので全体を撮影した。特に三枚目の今井憲一の作品が好きだった。画像左にある「原生林」が気持ち悪くて魅入られてしまった。感情を逆撫でされる不快さが強くてどこが良かったかの具体的な記憶は忘れてしまったが。

しばらくやってるみたいなので、もう一度行ってみたいと思う。一度では到底足りない。二度でもおそらく足りないだろうけれど。

ずっとギャラリーでアマチュアの作品ばかり観てたけど、やはり美術館は格が違う。アマチュアは波長があった人に刺さる感じだけれど、美術館の作品は広い人に強い印象を与えるものが多い気がする。今までなんとなくかけてきたけど、絶対間違いだったな。これからはできるだけ行かないといけないにゃ。

 

その後、すぐ横にある京都市動物園に行った。京都にはもう6年住んでいるが、実は動物園をちゃんと回るのは初めて。ヒトばかり見ていると似た形に似た動きなので、いろんな体を持った生き物がいろんな動きをする動物園は刺激としてとても良かった。

よかったもの。ローアングルから見れたジャガーと、その揺れるしっぽがよかった。悠々と歩くアムールトラアムールトラは横から見ると大きいが、後から見ると横幅は意外と薄く、大きさと質量のバランスが取れていると感心した。十数匹いたフサオマキザルは人に近い頭蓋を持ちながらも全く違う歩き方や腕の使い方をしていたので見ていて飽きなかった。アマガエルやアオダイショウの形状、凹凸、マテリアルが美しかった。アジアゾウが大きくてこわかった。ウサギやモルモットがもちもちだった。ヤブイヌが左右対称に足を動かして走っていたのが面白かった。キリンと目があって絶望感のようなびびりを覚えた。

 

何かを見るという事は手を動かす事と同様に大事なのだと思った。ここ1年、何かをやると決めて決めたことをやるということを続けてきたけど、それが習慣化した今、ギアを落としてしっかりインプットすることも覚えないといけないようだ。何もしないでゆっくり何かを鑑賞することと、全力で手を動かして作品を盛り上げること。この相反する静と動を両立させていかないといけない。難しいぜ。

 

あと、今日やばい動画を見つけたので書き残しておきたい。縮小についての動画を作っているたっぴさんの新作動画。まず見てくれ。長くないから。

youtu.be

エグい。何でそんな酷いことする??? 生粋のサディストかよ。いや、たぶんハクさんに感情移入してるからどちらかというとマゾヒストなんだろうが…

まず、ハクさんはこの後走り続けても永遠にゴールに辿り着かない。10秒後に縮小して相対的に残りの距離が倍になるのだから、10秒間に残りの距離の半分を走る速度がないといけないのだが、その半分に微妙に足りない。10秒で走って何とか縮まった距離は縮小によりリセットされ(なんならほんの少し量増しされ)無に帰される。身体ばかりが縮小しヒトから微生物に堕とされていく。走るのをやめても縮小は止まらない。ついでにいえば、あと5%でも早く走れていればゴール出来ていたので自責の念も生まれてしまう。こんな酷いことがあるかよ。

昔の誰かが一つめの畳に米一粒、その次の畳にその倍、さらにその次の畳にその倍の米を…と言って累乗の怖さをわかりやすく示した話は有名だけれど、それと同じように誰も知らない縮小の怖さを分かりやすく示しているのだから本当にすごい。縮小の無力感、絶望感、そこから反転して得られるカタルシスを明確に抽出して作品にできていることに感嘆をずっと覚えている。いつかこういうもの作って死にたい。できるかな。一つ一つ積み上げていこう。

ちなみに。動画に出てくる小道具も要所要所で縮小して見る世界のおもしろさを的確についている。いま錠前と同じ大きさなんだ…とか、巨大すぎて表情を変えるモニターとか、それが嵌まる首の大きさを想像させられる首輪とか。本当に普段から自分を縮小させていろんなところに置いてみて、そんな妄想を楽しんでいるのが伝わってくる。やはり必要なのは観察とインプットだ。強引に自分の課題にこじつけていく。せっかくVRがあるのだから、小人の気持ちをいろいろ体験していかないといけない。言葉自体は4年前から言っているけど、今までで1番その必要性を噛み締めて発言している。おれはずっと知らないことばっかりだ。

最後に一つめっちゃ好きポイント言っていい? 動画の最後のミリサイズの矮小さを見た後にもう一回再生して最初の1/8部分を見た時のだいぶヒトらしさを取り戻した錯覚がすごく良い。本当はまだ子猫サイズでヒトからはかけ離れているというのに。でも1/10000から1/8まで戻してもらえたら泣いて喜ぶんだろうな。人の感覚って脆すぎる。すき。