葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

「舞踏」を見に行った話

 去る3月31日、シェアハウスの住人が「舞踏」のイベントに出演するというので見に行きました。その住人が舞踏を行なっていることは知っていたけど、実際に見たことはないし、それどころか舞踏についての知識もほとんどゼロの状態でした。その人がLINEグループで舞踏の公演を告知しているのを見て、何も考えずに予約して見に行くことにしました。未経験のものは積極的に取り入れていこうと考えているので。*1

 もう十日ほど前の話ですが、別の住人が書いた記事が素晴らしく、触発されたので僕も自分なりにその体験を記すことにしました。舞踏を観たのは初めてなので至らないところもあるかと思いますが、お付き合いしてもらえたら幸いです。(かなり知った顔して書いてるので大外れだったら嫌だな、そのときはごめんなさい)

 僕は起こったことを詳細に表現するのが苦手なので、細かい具体的記述については彼のnoteを見てください。彼の文章も僕と違った観点で書いてるので面白いです。

「する」舞踏と「見る」舞踏【UrBANGUILD3/31舞踏ナイト感想】|えもいえ|note

 

 見る前に”舞踏”について知っていたのは、バレエやフィギュアスケートのようにわかりやすい「踊り」を見せるものではないということくらいでしょうか。別名「暗黒舞踏」「前衛舞踏」とも言われているところからなんとなくそのようなイメージはしていましたが、それ以上の具体的な情報は何も知らない状態でした。*2

 下手に聞きかじった知識を持ってみるよりは全て自分で体験する方がいいように思って、あえて何も調べずに向かいました。どういう雰囲気なのか、会場や客層はどんなものなのか全くわからなくて少し怖かったですが、着いてみると広くて落ち着いた場所だったので安心して腰を落ち着けました。会場内に併設してあるバーカウンターではかなりの種類の食べ物や飲み物を提供していて、晩御飯を食べてきたのを後悔しました。とりあえずレモンパイを頼んで始まるのをゆっくり待ちながら一緒に来た友人と話してきました。

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 かわいい。レモンパイは頼んでから焼いてくれるので温かく、うれしいですね。うきうきしながら一口食べたあたりで突然照明が暗くなりはじめました。

 

 舞台照明が灯り、舞台上に一人の女性がいるのが分かりました。ゆっくりと手足を動かしています。文字で伝えるのはとても難しいですが、なにかを表現しようとしているといった作為性は感じられず、女性に憑依した別の生き物がなにもわからずに活動を開始したように思えました。少なくとも普段見慣れている人間の動きではありません。

 少しずつ音が流れはじめましたが、音楽というよりはアンビエントのような雰囲気を構成する音のような感じで、それに合わせて踊るというよりは動きに合わせて音が存在するような感じ。トムとジェリーやディズニーアニメで言葉の代わりに心情を表現するBGMのような。あれほど分かりやすい表現ではないのですが。

 彼女は舞台の上下左右、それと奥行きまで使い、静と動も使い分けながら踊っていました。しかしそれは踊りというにはあまりに原始的で、でも原始的ゆえに言語で表す以前の根源的な何かを強く印象付けました。5〜10分ほど踊ったところで彼女は舞台の手前側に近づき、ゆっくりと第四の壁を破り、観客席の通路へと歩を進めました。通路に近い観客のこともちゃんと認識し、一人一人をまじまじと観察しているようでした。その後も観客席までいっぱいに使い*3、可能な限り全てを使って何か*4を表現していました。今思うと、舞台を降りて演者と観客の境界を失っても「普段見ている人間ではない何かの生き物」という認識で見続けられるほどに表現力*5が高かったということであり、その技術の高さには恐れ入ります。

 話は少し戻るのですが、第四の壁を破られた時、僕は強い不安を感じました。舞踏が始まってから今まで持ってきた文化や価値観と根本から異なるような動きで踊り、言語による思考を禁止され、場の認識能力が非常に不安定な状態になっていたのに、さらに舞台上の演者と観客席の観客という二分化まで取り払われてしまい、丸裸のような状態で放り出されてしまったのですから。もうそのときの僕には舞踏を認識するために依るべき見方を完全に失い、赤子のように一から場の認識を構築するしかありませんでした。

 正直、それから先はあまり覚えていません。高度に原始化された動きからは自分の様々な記憶や体験(初めてピザを食べた時の感情、ディズニーランドで迷子になった記憶、自転車で30km先の高原まで旅したときの思い出、彼女に首を絞められたときの記憶(存在しない記憶)など)が想起され次々に頭の中を駆け巡り、同時に舞踏自体も認識しなければならなかった*6のでそれに頭を使うだけでいっぱいいっぱいでした。今思い出しても30分間の舞踏が幕を閉じ、演者の女性が膝をついて礼をした記憶からしか思い出せません。

 今回のイベントでは4つのアーティストが舞踏を披露して、今述べたのはひとつめの舞踏についての記憶なのですが、ふたつめ、みっつめの舞踏についても同じようなこと*7しか述べられないため詳細に述べるのは省きます。というか今述べた「ひとつめの舞踏の記憶」にふたつめ以降の記憶や感情が混じっていないとも言い切れないくらい曖昧になっているので、それぞれを個別に述べるのがそもそも不可能というのもあります。

 

 よっつめの舞踏について語るのは一旦後にして、ここで舞踏の感想を舞踏鑑賞の初心者なりに頑張って書こうと思います。感想なので書きやすい「だ・ある調」の文に移行します。

 上記の通り、舞踏というのはとても非記号的であり、認識するのが難解な表現であるけれど、それは既存の言語や価値観を越えて表現するための手段のように思えた。既存の踊りや演技の技法では様々な感情や情動が表現できる。しかしそれらは言語で表せるものしか表現できない。もう少し正確に言うと、演者の持つ文化の範囲内の現象しか表現できない。文化の範囲を越えた、人間(あるいは生物)一般の動きや感情を表現するためには、非言語的であることはもちろんのこと、我々の生きている社会の文化や価値観*8と独立した表現を行わなくてはならない。それに挑戦しているのが舞踏だと感じた。

 演者は普段生きている文化を捨て去り、あたかも別の生き物*9が憑依したかのような動きを披露する。それを見た我々観客もその動きを認識するために邪魔な言語による世界の認識手段を捨て去り、一挙手一投足を注視して必死にゼロから読み取ろうとする。「我々観客」といったが、もはや主体客体の概念も消失してしまっているため目には舞台、客席、観客、演者が混ざり合い一つの世界となって認識される*10。そうして認識するための全ての手法を捨て去ってようやく根源的な情動を認識することが可能となり、普段受容されない感覚が洪水のように流入することによってさらに意識が曖昧になっていく*11。そうして普段は「文化」というフィルターを通して加工される周りへの印象が全く加工されないまま認識され、圧倒的なリアリティをもって世界を認識することが可能になるのだ。それを演者と舞台*12だけで行うから驚きである。僕が二十年近くかけて構築した価値観は数名の手によってたったの三十分でバラバラに解体されてしまうのだ。

 

 色々書こうとしたが舞踏の本質はつまるところ、「常識」を捨てさせられプレーンな状態で認識することにより普段引き出せない様々な情念を引き出せること、これに尽きる。「踊り」という言葉からはかけ離れたなんとも表現しがたい動きは、我々の文化や認知の方法を放棄させるための呪術、魔法なのだ。舞踏の目的は、踊りそれ自体ではなく、その呪術をかけた結果観客や演者に生物としての原体験を生じさせられるところにあるのではないだろうか。*13

 

 それを踏まえて、よっつめの舞踏の話に戻りましょう。よっつめの舞踏はそれまでと異なり、バンドの生演奏による音楽*14に合わせて男性の演者が踊るものでした。それまでと比べると抽象度も低く、こちらはいくらか安定した気持ちで見ることができました。

 その舞踏の中で突然観客の女性が立ち上がり、舞踏を行っている演者の横で音楽に合わせて踊り始めました。実はふたつめやみっつめの舞踏でもある程度干渉していたのですが、よっつめの舞踏では舞台に上がったり演者の持っているバトンを奪うなどかなり強く介入をしていました。衝動を自分で抑えられないタイプの発達障害かもしれません。これがバンド演奏などならただちに取り押さえられていたのかもしれませんが、スタッフの介入は呪術を解き現実に引き戻すと判断されたのか強制退場は最後までありませんでした。演者も強く拒むことはせず、時には手を取って踊り、最後までその女性を舞台の一部として見事に使って見せてくれました。プロですね。仮にキレたりなどしていたらそれは演者が現実的対応を行ってしまうということで、それは全ての観客の呪いを解くことに繋がってしまうのでヒヤヒヤしながら見てました。*15

 鑑賞しているときは邪魔に見えたこの女性の衝動ですが、しかし今になって思うとある意味正しい反応だったのかもしれません。舞踏は完成された踊りを誰の邪魔も入らずに鑑賞できるものではなく、演者と観客が混ざり合いながら一つの舞踏が編み上げられていく現象に参加するものであります。ですから、衝動に動かされ踊ってしまうのは演者に近づかれ見つめられた観客が目を背けてしまうのと同じように作品の一部であるのです。むしろ「観客はできるだけじっとしているべきである」などという感覚を捨てきれていない僕たち観客の方がある意味まだ舞踏に入りきれていないとも言えるでしょう。もちろん全員が自由に動くと演者が自由に動けなくなるので、彼女の行為はそれはそれで極端すぎるのですが。。。

 それでも、衝動を抑えきれず楽しさを叫んで表現しながら踊り、舞踏が終了したあとも「みんな一緒に踊ろうよ」と呼びかけたその女性に、僕は舞踏の観客としてあるべき姿の一側面を見ました。衝動を抑えるタガをある程度外すことができるようになってはじめて舞踏の観客として舞踏が目指す境地にたどり着けるのではないでしょうか。そう考えると、舞踏の目的の一つには衝動と理性のスイッチングを自由に行える状態になることがあるのかもしれません。

 

 

 総括すると、はじめての舞踏鑑賞はとても貴重な体験になりました。普段は日本の*16文化に染まった人間ばかり見ているので、それから外れた生物を見る(という認識をする)のはなかなかできる体験ではありません。もう意識的にはあまり覚えてないけど、そのとき感じたそれぞれの感覚は無意識の中で僕の価値観に作用していることだと思います。本当に衝撃的だったので。

 意識の管轄以外の脳領域に作用する方がより強力な体験をさせられるのなら、映像制作にも使えるのかもしれません。少なくとも、これからは非言語的な些細な振る舞いに目を向けていこうという思いは生まれました。もちろん舞踏ほど抽象度は高められないどころか「憑依モドキ」になるかもしれませんが、最悪でも技法を学ぶための足がかりにはなることでしょう。

 

 かなり精神的に疲れたけど、いい日だった。他の住人に話したら興味を持っていたようだったので、その人を連れてまた観に行くことになると思う。次も何か実りがあるといいな。

*1:僕は基本的に生活にランダム性を取り入れていきたいと思っているという理由もあります。自分の意図や価値観をあまり信用しすぎないようにしています。

*2:舞踏を見た今だから思うのですが、「暗黒舞踏」「前衛舞踏」という言葉はたしかに舞踏の外見的なイメージに近いものを想起させますけど、舞踏は別に「暗黒」性や「前衛」性を求めているわけではないので不適切だと思うんですよね。舞踏は何かの情動を表現することを目的にするという踊りの根源を突き詰めた表現技法のように僕には思えるので、“舞踏”という抽象的な言葉が一番適切だと思います。というわけでこの記事では舞踏と表記していきます。

*3:床に伏せ天井に登り、やはり三次元的に

*4:それが何か分からないというというよりは形容するための言葉を持たないので何かとしか表現できないのです。

*5:意識的、人為的に表現しているわけではないので憑依力と書くほうが正確かもしれません

*6:舞台と客席はすでに舞踏に取り込まれてしまっているのでどこに目を向けても舞踏を認識することから逃れることはできない。

*7:生物においての根源的な何かを表現していること、様々な言語以前の低次元な感情を想起させたこと、見た後にひどい疲れを覚えたこと

*8:雑に言うと「常識」だろうか。

*9:人間かもしれないしそうじゃないかもしれない。

*10:演者に見つめられて怯える観客もその頰を流れる冷や汗も全てが舞踏の一部となるのだ。

*11:頭をよぎった過去の様々な感情も普段感じない感覚に対するバグのようなものかもしれない。

*12:ライティングと音響など

*13:簡単に述べたがその呪術を掛けるのはもちろん容易ではない。それを可能にする演者の技能にはただただ感心するばかりである。

*14:普通の音楽のように規則性がある。少し安心。

*15:動きの中でやんわりと拒否するのは何回もやっていましたが、通じていなかったようで最後まで絡まれていました。

*16:もっと狭い、「左京区の」と言った方が適切かもしれない。