天才猫耳少女の手記

何の気なしに生きていく。

ブレードランナーにおける人間中心主義について

 こんにちは。ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。今のは耳に入った言葉を口から(口?)出してしまったやつです。バーチャルユーチューバーの届木ウカという人間(人間?)が太宰治の駆け込みなんとかという小説を朗読しているやつを聴いています。小説を作業用BGMにすると断片的に情報が流れてきていいですね。はい、今日も面倒な導入を終えることが出来たので本文に行きましょう。

 

 この前、授業でブレードランナーを見て議論するやつをやりました。生態人類学という授業だった気がします。「我々」と「他者」の境界について、また「我々」からの「他者」の扱いについてとかなんかそういう感じのテーマでした。説明下手ですいません。その授業の中でブレードランナーを見て、思ったことを発表したのですが、そのときに使ったレジュメがもったいないので公開します。もう提出したやつですし、そもそもレポートではないので多分大丈夫でしょう。多分。

 ブレードランナーを見たことなくてこの先を読みたい人はwikipediaにあらすじと登場人物一覧が載ってるので参照するといいかもしれません。

 

--------------- 以下レジュメから引用 ----------------

 

 ブレードランナーを見た。この作品はレプリカントと呼ばれる人造人間と人間との間でなんやかんやの事象が起こる作品である。もう少し具体的に言うと、レプリカントとはタイレル社という会社が開発したアンドロイドである。人造人間ではあるが機械的な印象は無く、かなり有機的なものであるが、クローンなどともまた違うようで、人間以上の知能や力を持つようだ。人間が生み出した生物(生物といえるかどうかは定義によると思うが)であるために人間との間には人間と主人とした主従関係があり、主に地球外における開拓や戦争の動員として働いているらしい。製造されてから年月がたつと感情を持ち始め人間に反逆し始めるため、4年という寿命が設定されている。映画のストーリーはあんまり本レジュメに関係ないので省略する。まあ各自見てください。

 さて、僕はこの映画を見て、人間中心主義が見えて気持ち悪いと感じた。人間中心主義とは僕の造語で、人間の価値観や言動の様式を唯一のものだとする考え方のことである。カルチャーショックの起こる前段階といえばわかりやすいだろうか。近代において西欧人は自分らの価値観を唯一のものだと考え、自分らとは独立した考え方を持つに至ったアジアの人々の価値観に衝撃を受けた。これは西欧人がある種の人間中心主義に陥った結果であるといえるだろう。もっと俗な例を出すなら、関東で育った人がうどんは汁の濃いものだと思い込んでしまうのも広い意味で人間中心主義だといえるだろう。また、自らの価値観が唯一のものだと疑わない他に自らの価値観が最上のものであるという考え方も人間中心主義に含められるであろう。

 誤解してほしくないのだが、レプリカントが人間の奴隷となり地球外で過酷な労働を行わされている差別的な点を指して人間中心主義といっているのではない。レプリカントの思考様式が人間的過ぎるのである。一番大きな違和感はレプリカントが延命治療を求めている点である。生存、繁栄を主目的にしている生物と違い、レプリカントは長く生きる必要性が無い。危機を回避して自分が破壊されるのを防ぐ目的で生存本能は最低限必要であろうが、それ以上に生存する欲望を抱かせる必要は全く無い。それどころか作中のように死を受け入れられず反乱を起こされてしまう問題があるので生への欲求を強くもたせすぎないほうがいいであろう。にも関わらず、レプリカントが当然のように人間同様に生を渇望するさまは違和感を感じた。

 また、バッティが死んだ仲間のレプリカントを悼んだり、「もう(生きているレプリカントは)俺たち二人だ」などと悲観するような台詞を述べたり、短命を治せない開発者や仲間を殺したデッカードを復讐のごとく殺そうとしたりと、彼の死生観はかなり人間に近い。共感感覚があるようにも見える。逃げたレプリカントたちのリーダーを努めていたせいだろうか?死が近くなり感情(と人間が認識するもの)が発露し人間らしい価値観になったのだろうか?あらすじから察するに感情の発露は発明者の予期していないものだったようだが、予期せずに人間にかなり似た感情を持つ可能性はかなり低いように思える。

 他にも、レプリカントは人間社会に紛れようとしている一方で、自分を人間だと思っているレプリカントのレイチェルが自分がレプリカントと知って動揺するシーンがあったり、そういった非対称性から人間はレプリカントよりもよいものであるという思想がレプリカントにも蔓延してるのが読み取れて微妙な気分になった。

 ただ作中に出てきたレプリカントはたった5人でサンプル数に欠ける上、彼らが人間社会に紛れる理由は人間と同じ暮らしがしたいからという他に地球で所属不明のレプリカントは処分対象になる(推定)からなども考えられる。レイチェルが動揺したのも落胆ではなく単なるアイデンティティの大きな揺らぎに衝撃を受けただけにすぎないとも考えられる。そもそも人間は人間が最上であると考えてもおかしくはないので仮にレイチェルが自分がレプリカントだったと知って落胆していても大きな矛盾は無い(不快ではあるが)。

 全体として言いたいことは、人間と違う神経構造の生物が人間と同じ思考様式を持つと思うなということである。しかしブレードランナーはかなりマシなほうで、(単にレプリカントの価値観描写が少ないせいかもしれないが)人間中心主義を強く感じるとまではいかなかった。他のSF/ファンタジーで宇宙人/人工知能/妖怪/妖精etcが人間と人間以外の邂逅を謳う割に社会/思想が人間に似すぎていて人間以外が出てきたら反射的に人間中心主義反対!と言ってしまう体質になってしまったのかもしれない。もっと人間以外の価値観を出して欲しいですね。

 

------------------- 以上レジュメから引用 --------------------------

 

 はい。人間中心主義っていいたかっただけです。まあでも何気に人間をよいものとする風潮は気づかれないうちに広まっていて、例えば人間が猫になったみたいなストーリーの作品では何とかして人間に戻ろうとすることが多い一方で猫が人間になったらそれは喜劇として扱われ、少なくとも悪いこととしては捉えられないという非対称性があるわけですよ。人間以外がみんな人間になりたがってるはずないだろ。

 この○○中心主義は人間以外にもさまざまなパターンがあり、特に「我々」以外の者を「我々」にしてハッピーエンドという展開の作品は割と多いです。

 先日こんなツイートをしました。これはそういう文脈ですね。このツイートで言及した作品ではないですが、今期アニメの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を例にすると、戦場で育って愛や感情を知らない機械的なヒロイン(「我々」以外)が愛という概念を分かりたい(「我々」になりたい)と願い、人の感情や愛を理解していく(「我々」になる)。ここで「我々」を白人に、「我々」以外を黒人に変換すると先のツイートと同じ構造になります。また、勃起というのは自分の望む世界観を目の前にして興奮し快感を得ることです。この例でいうと、愛を理解してハッピーエンドという作品を見て、「愛という概念が存在する我々人間は素晴らしい」という賛歌に興奮し快感を得るという感じです。

 完全に構造が非西洋人を西洋人化しようとした近代の西洋人と同じなんですよ。で、近代の西洋人はほぼ確実に批判を受けるにもかかわらず、それと同じ構造を持ってる○○中心主義的な作品は勃起しながら見るわけです。気持ち悪い。ダブルスタンダードやめろ。結局何故近代の西洋人は批判されたのかというと非西洋人の文化に西洋人が共感したからで、共感できないとどんどん人間は他の文化を侵略していくんですね。猫は「は?おれたちが人間になりたいわけないだろ、ふざけるな」なんて表明しない(もししていても人間が感じ取れない)から勝手に人間が自己中心的に思い込むわけですね。人間は共感を基盤にしないと何もできないのでやっぱり終わりです。時代はダイオウイカ。(結局この結論に落ち着くのワンパターンですね。反省します。)