葉脈と潮流

純粋さを磨き、迷わない。

「蜜のあわれ」を観て

 初めに言っておくと、これは映画「蜜のあわれ」の感想、レビューなどではありません。この映画を観て心に浮かんだものを書きつづったものに過ぎず、あまり内容とは関係ありません。

 

 先日、僕は藍鼠として初めて映画館へ行きました。藍鼠さんはそこで何らかの感慨を抱いたようで、映画館からの帰りに考えを整理するために長々と文章を書きながら帰りました。

 そもそも思考の整理用、つまり自分のために書いた文章ですし、加えて当時は思考の多くを無意識が占めていて要領を得ない文体になりましたが、なんとなく公開しようと思ったので公開します。

 

 

 上映が終わった。内容ははっきりと覚えていない。金魚やおじさまがどのような人物だったか、原作との相違点、それどころか自分がどのような感想を抱いたのかもよく分からない。唯なにも分からないという気分とそれに付随する不安感が残っている。だが何とか内容を思い出して感想を綴ってみようと思う。

 初め、金魚は何にも染まっていない、あどけない無垢な少女に見えた(ような気がする。要ははっきり覚えていないのだ)。それを見て僕は、これは少女のイデアにかなり近いなと感じた。理想像に近すぎて現実感がなかったのだが、映画なのだからこれくらいがいい塩梅なのだろうな、と感じたのを覚えている。

 その後は色々な人間が出てきて、色々な言葉を発していった。その内容は詳しく覚えてはいないのだが、それを理解できない不安からジーンズを強く握りしめてしまったことは覚えている。

 金魚は色々な人間に出会い様々な経験をしていった。彼女は世界が自分の好むようにはならないことを知り、フラストレーションを覚えていったように僕には見えた。だがそれは僕が彼女に自分を重ねすぎているからなのだろうか。それもまた分からない。私を不安にさせていく。

 話を戻そう。後半、金魚がおじさまと口論をするシーンが何度か見られる。そこには完全だった少女は居ない。金魚もおじさまも、感情的になり、醜く自分勝手なことを口走っていた。しかし、僕は何故かそこに美しさのようなもの(名状しがたい気持ち。美しい、尊い、愛しさなどいう表現が近い気がするが微妙に違う気もする)を感じた。人間が駄目なことを嘆いているいつもの僕とは明らかに違う。その不可解な経験を反芻しているうちに思い浮かんだのは「桜は散りゆくからこそ儚く美しいのだ」という言葉だった。少女もまた、永遠に少女ではないからこそ美しいのだろうか。それとも、それはまた別のイデアなのかもしれない。というのも、同じ美しさを僕はおじさまにも感じたからである。彼らは愚かであったが、しかしそれでも生きていこうとしていた。そこに僕は何かしらの美しさを感じたのをかもしれない。人間は不完全な存在なのであり、ゆえに僕が完全でありたいと望むのは間違っているなどと考えたような気もする。(気もする、というのはその辺りの記憶は曖昧で、類推によって補っている部分もあるからである。)

 そうこうしている内に幕が閉じた。照明が明るくなったとき、僕は自分が自分でもよく分からない感慨を抱いているのを覚えた。丁度夢から覚めたときのように、その感慨が存在していることから何かしらを体験したことは確かなのだが、何を体験したかは分からなかった。本当はその場で自我が曖昧な時間をもっと過ごしていたかったのだが、退出を急かすかのように清掃員が入ってきたので僕は現実に引き戻されざるを得なくなってしまった。それが少し残念である。

 そして今、僕は自転車を押しながらこの文章を書いている。一時間以上経っているから5kmは歩いたのだろう。何とか思考を絞り出しては見たが、要領を得ていない文章になってしまった気がしてならない。無意識的な部分を書きだそうとしているので当然ではあるのだけれど。

 総括すると、初めての映画館は良い体験になったものと思われる。僕が失望してはいないことから、1,500円を払う価値はあったと考えていると推定できるし、このように意識を排除した思索もできた。また何か別の映画を観に行ってみたい。

恋愛についての些細な雑談

「竹中さん」

「なんですか」

「突然ですけど、僕、恋愛したいんですよ」

「はあ」

「恋愛という物をね、体験してみたいんですよ」

「二度も言わなくていいですよ。

 ...一応聞いてあげますけど、何でいきなりそんなことを?」

「何でって、ええと、誰かを好きになるってことはさ、その人のものの見方や考え方、つまりはその人の価値観が好きってことだろう?」

「まあ、そうですね」

「交際関係を持てば、相手は天衣無縫というか、ありのままの価値観を見せてくれるだろう?僕の好きな人の、僕の好きな価値観が純粋なまま氾濫する中で漂う。そう考えるだけでも素晴らしくないかい?しかも、相手から見ても僕の価値観が溢れているようであればだよ、僕の価値観は相手の価値観に侵され、相手の価値観は僕の価値観に侵されて、結果互いの価値観は交じり合うんだ!二人がお互いに価値観を変えあうなんてきっと薬をやったような多幸感が味わえると思わないかい!?」

「ちょっと、まず落ち着いて、後生ですから。声も大きいですし...

 っていうか、ずいぶん変わった見方をしますね。山本さん彼女居たことないでしょう?」

「ああ、まだ無いね」

「わたし彼氏居ますけど、いま仰ったことは全然分かんないですよ」

「そうなのかい?」

「好きな人の価値観が溢れる中に居るのが幸せ、ってのはまあ、分からなくはないですけど、お互いに価値観を変えあう幸せなんてのはないですね、おそらくは。山本さんもそう思うかどうかは分からないですけど」

「うーん、そうなのかあ。人の価値観を変えるのってさ、まるで相手の運命を変えるようで興奮しない?」

「んーと、理屈はまあ、分かりますけど。でもたかがカップルくらいで大それた変わり方なんてありそうにないですよ、やっぱり。

 もしかすると、恋に恋したりしてないですか?」

「否定はしないね。っていうか多分そうだろうと自分でも思うよ。竹中さんは大学生にもなった人間が恋に恋してるのをどう思う?やっぱり恥ずかしいことかな」

「いいんじゃないですか、自覚もしてるみたいですし。さっきみたいに突然興奮したりはしないで欲しいですけど。

 というか、むしろ恋に恋できるときにやっておけばいいんじゃないですか?恋に恋するのって恋愛したこと無い人の特権だと思いますよ。無知なものへの憧れに勝る物は早々ないですしね」

「ふむ、確かにね。でも、それでも待ちきれないんだよ」

「分かりますけど、がっつかないほうが良いですよ。そうやって焦ってみんな恋に失望するんですから。恋への恋で満足して、これぞという人が見つかるまでは待ち続けるくらいが良いと思いますよ。」

「うーん、そうかなあ、恋愛に失望するほど期待はしてないと思うけどな」

「そんなことないですよ、人間は恋愛を自分に都合が良いように捉えてしまうんですから」

「さっきから随分悲観的だねえ。ところで、そこまで言うってことは君の彼氏は”これぞという人”ではないのかな」

「嫌な洞察力ですね。それがどうかしましたか」

「それならどうして失望してもなお付き合うんだい?答えたくないのならば答えなくてもいいけれど...」

「言うほど嫌じゃないから大丈夫ですよ。何ででしょうね。多分煙草や酒と同じなんですよ、理性が止めろと言ったからって簡単に止められるものじゃあないんです」

「ほう、興味深いね、理性で止められないなんて。その感覚はぜひ体験してみたいな」

「なら恋しましょう、そして山本さんも目一杯悩めばいいんですよ」

「おお、いいねえ。しかし竹中さんは面白い見方してるね、君となら付き合ってもいいかもしれない」

「私は嫌です」

「即答かい」

「即答です。この距離感が丁度いいんですよ、私は」

「残念だな、半分は本気だったのだけどね」

ドールハウスに住みたいという話

 突然ですが、僕にはドールハウスに住みたいという欲求があります。女の子が遊ぶあのドールハウスです。

 Twitterからこのブログに飛ぶ人が多そうですし多分ご存知なんじゃないですかね。

 これについて、毎回他人に共感を求めるのですが、全く共感が得られません。殆ど期待もしてないのですが。

 せめて理屈の上でもドールハウスへの思いを理解して欲しいですし、ちょっと色々あってドールハウス欲が昂ってきたのでこの欲求について書き殴ろうと思います。

 

 「そもそも、ドールハウスに住むって何?住めないよね?」

 ごもっともです。「ドールハウスに住む」という行為には言外に「”縮小して”ドールハウスに住みたい」という前提が含まれています。僕の他の欲求として「人形サイズにまで小さくなりたい」というのがあり、これが叶った後にやりたいことがドールハウスに住むこと、となっている訳です。

 そんなわけで、まずはこちらの縮小欲求について説明しましょう。

 

 結論から言うと、縮小化は楽しいのです。

 小さくなれば、周りの全てが変わります。不思議の国のアリスから例を引くと、草花は木のように頭上にそびえ、きのこは椅子代わりになり、イモムシが同じくらいのサイズに見えます。メルヘンチックな話を抜きにしても、大きな変化があることに違いはありません。部屋はテニスコートのように広く感じるし、普段は二段飛ばしで昇っている階段は一段が自分の身長よりも高くなります。いつも可愛がっている猫からは逆に可愛がられるでしょう(事によると喰われる?)。

 そんな、スリルに満ちた冒険の世界。それを可能にするのが縮小化だと、僕は思うのです。

 不思議の国のアリスを読んでわくわくしたことのある人なら、何度も体が小さくなる妄想を重ねれば同意してくれると思っております。思うに、このような妄想をしない人間が多すぎるのです。妄想すれば楽しめる人は少なからずいるでしょうに。

 

 さて、次はドールハウスについてです。

 小さくなったあとすぐは、巨大な世界の中で上記の通りスリルがあり楽しい時間を過ごせるでしょうが、次第にその世界に苛まれるようになります。世界は人間に都合が良いようにできていて、小さな自分にはどうも不相応です。階段を昇るのも一苦労で、自分が矮小な存在だということを思い知らされます。しかも、逃げ場はありません。何処へ行っても巨大な世界です。

 そんな小人の唯一の避難場所がドールハウスなのです。ドールハウスは小さくなった人に比較的相応なサイズで、まるで小人のために作られたように感ぜられます。ここではきっと小人も心を安らげられることでしょう。

 ところで、ドールハウスは大抵、壁の一面が無いです。実はこれもドールハウスのよさの一つなのです。その理由はドールハウスの中から外を見た景色を想像するとわかります。

 想像してみましょう。あなたが普段過ごしている部屋。その壁の一面が完全にぶち抜かれます。さらに、その奥には今居る部屋より十数倍大きな部屋が続いています。壁の一面を境界にして、大きな世界と小さな世界が繋がっていることが自然と理解できると思います。外から中を見たときにもその境界があることは分かりますが、中から外を見るときには心に迫ってくる勢いで強く感じられるのではないでしょうか。この非日常的な境界面がまた良いのです。

 さらに、先にも述べたように、ドールハウスの中は小人専用の場所です。しかし、その空間の一面は開かれ、その空間の安定性は風前の灯です。大きな世界の物がドールハウスに入ってくれば、たちまちその空間は大きな世界のものになってしまうでしょう。そういう意味では、この空間は小さな世界と大きな世界のどちらにも属しません。

 ドールハウスの魅力は、一面が開けていることにより、大きい世界と小さい世界が会合すること、小さな世界と大きな世界が微妙に混ざり合った不安定で不思議な空間が作られていることにあるのです。不安定で不思議、なんとも心惹かれる文言ではないでしょうか。僕はそこに夢を見ているのです。

 

 これだけの文量では魅力を全て書ききれないのですが、主な理由はこのあたりです。理解していただけたでしょうか。何を言ってるか分からない人から、共感しがたい人へとランクアップしてもらえればそれだけで幸いです。それだけでドールハウス愛も叫びやすくなるものなので。理解されないのは地味に辛い物なのですよ。

11月にあった色々な何か

 こんにちは。もう11月も終わりですね。

 ずいぶんブログ更新を滞らせてましたが、まあ色々あったんです。書く暇が無かったり暇が出来たら妹にPC取られたり、後は単に面倒でした。書きたいことはいくつかありますし、月一更新は守りたいのでつらつらと今月起きた事を書き連ねます。何気に初めての日記です。

 

 今月は模試が3つありました。今月忙しかった理由の大半はこれですね。珍しく平日に真面目に勉強したりしてました。模試直前になって初めて自主的に勉強するなんて本当に不真面目ですね。昔から夏休みの宿題は最後まで溜め込むタイプでした。

 まあそれはいいとして、その内の一つ、駿台の模試に参加するために22日に福岡の天神に行ったんです。朝の9時前から夜7時半まで模試と、長時間拘束されましたが残りの時間を天神観光にあてました。天神の街は華やかで賑わっていて良いですね、どの道に入っても賑やかで活気があって何だかにこやかな気分になりました。多分そこに住むとなると違う感想を持つんでしょうが、観光する分には良い街ですね。

 

 他に、喫茶店デビューをしました。誰かに連れられて行ったことは何度かありますが、自分一人で行ったのは初めてです。ちょっと値段が張るので少し敬遠してたのですが、思った以上に自分に合う場所でした。外の音を遮断された薄暗い店内。主張はしないものの確かに店の雰囲気を作っている小道具。店内に流れる洒落た音楽。その空間だけで自分にとってはお金を払う価値が十分にありました。料理も美味しかったですが、ああいう空間で食べればどんなものも美味しく感じるのではないでしょうか。喫茶店、本当に良いですね。次から遠出をするときはその前にその地方の喫茶店を調べたいと思いました。

 

 さらに、ゴルフ練習場に行きました。実は僕は小さい頃にゴルフの経験があり、再開しようとは常々思っていて、ついに実行に移した、という感じです。クラブは高いのでレンタルだったのですが。経験ありとはいえ、フォームを覚えているくらいで完全に初心者でした。結果はというと、球はちょくちょく左右にそれるわドライバーでも180yしか飛ばないわで散々でした。それでも、体を動かしたおかげかそれから気分が良いんです。適度に運動はしたほうがよさげですね。

 

 以上、11月は過去にやらなかったことをいくつかやってみたのですが、今振り返ると自分の中で何かが変わったように思います。今まで自分の中で感じていた自分の思想の閉塞感が取っ払われ始めたような。昨日と同じ生活では昨日と同じ思考しか出来ない、と常々頭では思っていましたが、実行してみて確証を得た感じです。これを踏まえてこれからも新しい何かをやっていきたいですね。とりあえずまた新たな試みとして図書館で文学作品を借りてきたのでこれから読んでみます。気が向けばまたここで報告するかもしれません。

 では、また。

社会に出ても役に立たない数学

 「数学なんて社会に出て何の役に立つのか」

 恐らく誰もが一度は聞いたことのある台詞でしょう。毎日日本のどこかで中学生辺りを中心に誰かが発している言葉でしょうし、まれに有名人や政府関係者などがこう発言したりもします(そしてほぼ確実にインターネットで炎上しますが、それは別の話です)。

 数学が何の役に立つのかいまいちピンと来ない人でも、数学は社会に出たら何の意味も無いという意見にはとりあえず反対する人が多いようですが、自分はこの意見はあながち間違いでもないと思うのです。

 

 誤解が無いよう言っていきますが、自分は学問としての数学は論理的思考力や問題解決能力などを育み、それらの能力は社会に限らずこの世を生きる中で十二分に利用できるものなので、学問としての数学は社会に出て役に立つ、と考えています。この「学問としての数学」というのがポイントで、これは「数学なんて社会に出て(以下略)」という言葉の中で用いられている数学とは似て非なる概念だと思っています。早い話、学校で教わる数学は学問としての数学とは別物なんですね。

 そもそも、よく言われることですが、学問というのは西欧からの舶来品で、日本には全く起源のないものであります。昔の日本人は日本を西欧に追いつかせようとして、そうする中で様々な問題に直面しました。西欧は諸問題を学問を用いて解決したため、日本も学問を輸入してこの問題を解決しようとしたのです。しかし西欧と同じ方法で学問を発展させていくのでは西欧に追いつけはしないため、部分的に利用可能性がある部分のみ輸入しました。実はここで日本と西欧での学問の認識が分かれてくるのです。西欧にとっては学問とは単に観察に基づく事実の追求の積み重ねであり、その結果が偶然にも諸問題の解決に使えただけに過ぎません。一方で日本にとっての学問とはその過程をすっ飛ばして、問題解決の道具として捉えられました。言うまでもありませんが、この認識の相違がまさに学問としての数学と学校で教えられる数学の相違であります。

 現行の日本の学校教育でも、基本的には学問は問題解決の道具、特に入試突破のための道具という風に捉えられています。学問の本来の意味が語られることもあまりありません。となれば学問は問題解決のための道具だという認識が学生の間に広まっても仕方ありません。

 

 さて、ここで初めの命題「数学は社会に出て役立つのか」に戻ってみましょう。しつこいようですが、この”数学”とは問題解決のための道具としての数学です。

 数学の基礎部分である中学数学、高校数学の時点でもう既に実生活で使えそうな道具はありません。現実世界には因数分解するような式は転がってないし、積分するようなグラフだって存在しません。せいぜい確率の計算や、図形の面積や体積の公式が少々役立つくらいでしょう。況や大学以降の数学は言うまでもなく無益です。勿論これらは他の学問(主に物理学)において非常に役立ちますが、それらの学問に関連する職に就かなければやはり社会では役に立ちません。

 問題解決能力などの上昇が見込めれば社会でも役立ちますが、それらを伸ばすのも難しそうです。というのも、問題解決のための道は自分で考える物ではなく、授業の中で与えられる物だからです。試験や受験で出るパターンを暗記し、試験ではそれらを状況に応じて適切に使い分ける。この方法では状況を判別する能力くらいしか伸びないでしょう。これだけを伸ばしてもマニュアル人間しか育成できません。

 因みに、数学が社会に出る前に役立つ面として、受験があげられそうです。試験で良い成績を取れる人は物覚えがよいため、そういう人を選別して難解な学問(これも問題解決のための学問かもしれません)を適切な人に教えることが出来ます。ただこの場合、正確には数学が役に立ったのではなく、数学を容易に理解できる頭が役に立っているので、やはり数学自体は役に立っていません。

 そういうことを鑑みた結果、基本的には数学は社会に出ても役立たないと僕は結論付けるのです。

 

 ここで話題を変えて、数学を社会に出て役に立つ形で教えるべきか、即ち、学校で学問としての数学を教えるべきかについて論じてみます。

 社会の役に立つのであれば、本来の学問のように数学を教えたほうがいいと思うかもしれませんが、問題はそう簡単ではありません。ここで、二つの数学の特徴を箇条書きにしてみます。

 学問としての数学

  • 問題解決能力や論理力などが向上する。即ち、応用性が高い。
  • 根本から理解しはじめるため、時間が掛かる。
  • さらに、不向きな人間にとってはどう頑張っても理解できない可能性がある。

 道具としての数学

  • 応用性が低い。
  • 特定の問題を解決するだけなら時間はほとんど掛からない。
  • 道具なので、難しいものでなければほぼ万人が取得できる。

 このように、それぞれに長所と短所があるのです。乱暴に言ってしまえば前者はハイリスクハイリターン、後者はローリスクローリターンなのであります。恐らく、ハイリターンよりローリスクを取った結果が現行の学校教育なのでしょう。学問としての数学を万人が取得できないというのは無視できない問題で、それも道具としての数学で教える理由の一つになりそうです。

 

 さて、道具としての数学が教えられている理由は分かりました。しかし、それは学問としての数学が教えられない理由にはなりません。ハイリスクハイリターンとローリスクローリターン、二つの選択肢があるのならそれぞれの学生がどちらで学ぶか選べてもおかしくないように思われます。

 一部の子供だけでも本来の学問を教えられるのであれば、学力の向上や有力な人材の育成に繋がるかもしれません。個人的には文系学部の縮小や英語を小学校から導入すること(これらは学問を道具的に見ている感じがありますね)よりもそちらの方がよい結果を生むと思っております。ここからは学校で本来の学問を教えることの可能性について模索してみます。

 まず、そのためには本来の学問を志すためのクラス、もしくは学校が必要です。一つの学校全体がいきなり本来の学問のみにシフトするようなリスキーな行動を取るとは考えにくいので、特別クラスが創設されるのが現実的でしょう。さらに、本来の学問には向き不向きがある(と僕は思っている)ため、脱退がある程度容易である必要があります。この点においてもクラス制にするほうが都合がよさそうです。

 後は新たに指導要項を作れば終わりのようですが、ここで新たな問題が生じます。誰が指導要項を作り、誰が教えるのかです。指導要項を作るのはまだしも、教える人材をどう確保するのかが非常に重大な問題です。個人的には大学教授を除くと優れた人材はなかなか教員にならないように思うので、大学以外では教える人材が見つかりにくいのではないでしょうか。

 しかし、大学から教えるにしても、高校までで道具としての学問に慣れてしまう学生が殆どになってしまい、本来の学問を志したがるのは何もしなくても自分からその道を歩むような学生だけになってしまうのでは、という危惧があります。

 このジレンマを避けるために、私立校や塾のような学校以外の教育機関が考えられますが、こちらはさらに厳しい。学生のとりあえずの目標が受験突破ということもあり、道具としての学問の即席性に惹かれて人々は塾に集まるのであって、そんな人々にとって本来の学問なんて効能が地味すぎて見向きもされないのではないでしょうか。この資本主義の世の中、実際の価値より人々が興味を持つかの方が重要なファクターなのです。

 逆に言えば、政府が強制して本来の学問を強制すれば、実際の価値が大きいほうへ民衆を導けますが、今の民主主義の世の中でそんな制度はまかり通らないでしょう。

 結論としては、本来の学問は魅力的なメリットがあり、取り入れるべきではありますが、学校教育でこれを取り入れるのは机上の空論の域を出ず、学校教育に革命を起こさない限り不可能という残念な結果に落ち着きました。

 

 それでも、やはり僕は本来の学問の有用性はかなり大きいと思うので、今後新たに本来の学問を普及させる機関が現れたり、もしくは学問ブームかなんかが起こったりしてほしいと願います。他力本願ですね(誤用のほう)。そんなわけで誰かよろしくお願いします。

東大理系数学'13 第5問を様々な方法で解いてみる

 この前、適当に数学の過去問を貪っていると、かなり面白そうな問題に出会いました。

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 2013年度 東京大学前期試験 理系数学の第5問です。(画像は河合塾から拝借。一部加工。)

 今回はこの問題(小問2)を誘導に乗らず様々な解法で解いてみたいと思います。

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精神年齢とは

 年齢の割に大人びている、とはよく使われる表現である。逆に、幼稚だというと年齢の割に考え方が幼いということである。これらの表現は昔からあるが、最近では思想や心構えの大人度合いを示す指標として、精神年齢という言葉も普及した。(一応言っておくと、知能指数(IQ)を計るための精神年齢とは別物である)

 

 しかし、その精神年齢とはどうやって計っているのだろうか。彼の精神年齢は20歳相当だ、などと何となく思ったりはするが、何をして20歳相当だと決めているのだろうか。

 考えてみると、○○という考え方をしているから精神年齢が幼いというのは言えるが、逆に○○という考えをしているから精神年齢が高いとはなかなか言わないのではないか。例えば、中学生程度の年齢で中二病が発症することは有名だが、高校生が中二病を患っていると幼稚扱いされる一方で、小学生低学年に表れても中学生並みの精神年齢とは判定されなさそうである。○○をしてるから大人だという理論は、未成年がタバコを吸って子供というレッテルを剥がしたがるように、大人に見られたがる人しか使わないように思う。

 となると、精神年齢と言うのは人の過ちをどれだけ悟れているかの指標だと僕は思う。中学生になる頃には小学生のノリが子供っぽいことに気づくし、大人になると大学生の頃の考えが馬鹿らしかったことを悟る。その悟りが早いものを大人びた人といい、例えば15歳なのに20歳以下の人が犯す過ちを全く起こさなかったら精神年齢が20代レベルと計られるのだと思う。

 つまり、精神年齢測定法は完全に減点方式だと思われます。そんなわけで大人ぶりたい方は年齢が上の人の行いを真似るのではなく、同年齢の人間、特に自分の属している界隈のノリに懐疑的になると吉なんじゃないですかね。

 

 因みに僕はよく精神年齢高いと言われますが、未だに小学生のノリを引きずっているので減点方式のことを考えると精神年齢は一桁です。お間違えのなきよう。